特攻隊、貴重映像 へのコメント(No.304

  • No.121 国際派日本人教育講座より

    13/03/23 22:11:42

    No.677 若き日の大東亜戦争
    2010/12/05 08:00
    「日本の古きよき時代を精一杯、力の限り生き抜いた」と女子医学生だった清水公子さんは語る。

    ■1.「いよいよやったね。しっかり頑張ろうね」

     大正11年生まれの女医・清水公子さんは、65年前の大東亜戦争開戦の日を次のように思い起こす。
    __________

     昭和16年12月8日、開戦の詔勅と真珠湾攻撃の大戦果を知ったのは、私が東京女子医専(現女子医大)に入学して2年目のことでした。

    喚声をあげながら朝食の為、寄宿舎の地下食堂へ急ぎました。

    途中、顔を合わせた級友達と、「いよいよやったね。しっかり頑張ろうね」と固く手を握り合ひました。・・・

     張り切るとはかういう事を言ふのでせうか。

    私達は前にも増して勉学に励みました。

    男性達は続々と戦場に召されるであらう、銃後を護るのは我々女性である、一日も早く役に立つ医者にならなくては、との自覚がもりもりと湧き上がって来るのでした。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

    「いよいよやったね」とは、アメリカが経済封鎖によって日本を追い詰めていったことに、国民全体が積年の憤懣(ふんまん)を抱いていたからである。

    たとえば石油輸出禁止など、日本経済の息の根を止めるようなルーズベルト大統領の対日政策に対しては、共和党の下院リーダーであったハミルトン・フィッシュ議員も、「日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルトにある」と述べている。

     この点を清水さんは次のように記している。
    __________

     開戦の詔勅に縷々(るる)述べられてある様に、長年の日米間のわだかまりは、度々の日本からの平和裡解決の為の特使派遣にも拘わらず、頑迷冷酷なアメリカの傲慢な態度に、遂に堪忍袋の緒を切らざるを得なかったのです。

     隠忍自重の末、戦争に踏み切らざるを得なかった日本、積年の憤懣の爆発は日本民族を奮ひ立たせ、人々はワシントン迄攻め落とせといきり立ってゐました。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     今日でも尖閣諸島で衝突事件を引き起こした中国が、さらにレア・メタルの輸出制限までして日本に理不尽な圧力をかけた事で日本国民を憤激させたが、その何十倍もの圧力を何年にもわたって米国から受けていた事を想像すれば、当時の国民の「積年の憤懣」が多少なりとも想像できよう。

    つづく

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