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好きな物は先に食べる?それとも後にする?
13/03/28 18:22:21
>>298 ■3.決死の宣戦布告■ 明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略 意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。 もとよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの 決断であった。 時の総理、伊藤博文は次のように語っている。 若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロシア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍 (一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむべし いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、というのである。 負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同様、植民地として隷従しなければならない。 この危機感は明治天皇から国民までが共有したものであった。 事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をもってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下る。 明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対してお詫びのしようもない、と涙を流された。 天皇は日露戦争中の御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の病で崩御されるのである。 続く
13/03/28 18:31:26
>>299 ■4.進軍の道すがら■ 軍人(いくさびと) すすむ山路をまのあたり 見しは仮寝の ゆめにぞありける 明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事もあった。 その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける者もいた。 進軍の道すがら (陸軍少将 中村寛) 道すがら あた(敵)の屍(かばね)に 野の花を一もと折りて手向けるかな 敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであった。 国のため あだ(仇)なす仇はくだくとも いつくしむべき事な忘れそ ■5.満洲の寒さ■ 戦場となった満洲の寒さは厳しい。 しかし、その寒さにも兵士らがまず思うのは、故郷に残した家族の事であった。 このごろ 寒さ一入(ひとしお)に 厳しければ故郷に病める 母の御身の上を思はれて 病なき 我だに寒しこの頃は いためる母のいかがあるらむ その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。 いたで(戦傷)おふ 人のみとりに心せよ にはかに風のさむくなりぬる 急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取りであった。 寝覚めして まづこそ思へつは もの(兵士)のたむろ(集まっている所)の 寒さいかがあらむと 目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事であったのである。 続く
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13/03/28 18:36:10
>>300 ■6.肉親を思う歌■ 戦場の夫が妻子を思い、また妻が夫を思う歌はとりわけ心を打つ。 家を出づる時 よめる父の顔 見覚え居よと乳児(ちご)にいへど ちご心なく打ち笑みてのみ 出征の時に、これが最後かとも思い、父の顔を覚えていてくれよと、我が子を抱いて見つめるのだが、幼児はあやされているのかと思い、無心に笑うばかりである。 片言に 君が代歌ういとし子の すがた写して 夫(つま)におくらむ 夫の出征の間に成長して、片言で君が代を歌う子供の写真を、夫に送ろうというのである。 旅順攻囲雑詠 たまたまに 稚児とあそべる故郷の ゆめおどろかす 大砲(おおづつ)の音 故郷で我が子と遊んでいる楽しい夢を、突然破るのは野戦の大砲の音であった。 新年山 つはものに 召し出されし 我(わが)せこ(夫)は いづくの山に 年迎ふらむ この歌は、陸軍二等兵卒大須賀昌二の妻まつ枝のものである。 明治38年の春の歌会始の入選歌で、両陛下の前で披露された。 出征した夫を思う妻のまごころは、多くの国民の共感を得たであろう。 歌会始めという「公」的な場で、このような「私」の情が歌い上げられた所に、「私」を大切にする「公」というわが国の伝統が窺われる。 続く
13/03/28 21:46:05
国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130 ★特に >>130 「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか >>274>>275>>276>>277>>278>>280>>281>>282 国柄探訪:「公」と「私」と(日露戦争)>>298>>299>>300>>301>>302>>303
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No.299 続き
13/03/28 18:22:21
>>298
■3.決死の宣戦布告■
明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略 意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。
もとよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの 決断であった。
時の総理、伊藤博文は次のように語っている。
若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロシア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍 (一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむべし
いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、というのである。
負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同様、植民地として隷従しなければならない。
この危機感は明治天皇から国民までが共有したものであった。
事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をもってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下る。
明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対してお詫びのしようもない、と涙を流された。
天皇は日露戦争中の御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の病で崩御されるのである。
続く
No.300 続き
13/03/28 18:31:26
>>299
■4.進軍の道すがら■
軍人(いくさびと)
すすむ山路をまのあたり
見しは仮寝の
ゆめにぞありける
明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事もあった。
その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける者もいた。
進軍の道すがら
(陸軍少将 中村寛)
道すがら
あた(敵)の屍(かばね)に
野の花を一もと折りて手向けるかな
敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであった。
国のため
あだ(仇)なす仇はくだくとも
いつくしむべき事な忘れそ
■5.満洲の寒さ■
戦場となった満洲の寒さは厳しい。
しかし、その寒さにも兵士らがまず思うのは、故郷に残した家族の事であった。
このごろ
寒さ一入(ひとしお)に
厳しければ故郷に病める
母の御身の上を思はれて
病なき
我だに寒しこの頃は
いためる母のいかがあるらむ
その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。
いたで(戦傷)おふ
人のみとりに心せよ
にはかに風のさむくなりぬる
急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取りであった。
寝覚めして
まづこそ思へつは
もの(兵士)のたむろ(集まっている所)の
寒さいかがあらむと
目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事であったのである。
続く
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No.302 続き
13/03/28 18:36:10
>>300
■6.肉親を思う歌■
戦場の夫が妻子を思い、また妻が夫を思う歌はとりわけ心を打つ。
家を出づる時
よめる父の顔
見覚え居よと乳児(ちご)にいへど
ちご心なく打ち笑みてのみ
出征の時に、これが最後かとも思い、父の顔を覚えていてくれよと、我が子を抱いて見つめるのだが、幼児はあやされているのかと思い、無心に笑うばかりである。
片言に
君が代歌ういとし子の
すがた写して
夫(つま)におくらむ
夫の出征の間に成長して、片言で君が代を歌う子供の写真を、夫に送ろうというのである。
旅順攻囲雑詠
たまたまに
稚児とあそべる故郷の
ゆめおどろかす
大砲(おおづつ)の音
故郷で我が子と遊んでいる楽しい夢を、突然破るのは野戦の大砲の音であった。
新年山
つはものに
召し出されし
我(わが)せこ(夫)は
いづくの山に
年迎ふらむ
この歌は、陸軍二等兵卒大須賀昌二の妻まつ枝のものである。
明治38年の春の歌会始の入選歌で、両陛下の前で披露された。
出征した夫を思う妻のまごころは、多くの国民の共感を得たであろう。
歌会始めという「公」的な場で、このような「私」の情が歌い上げられた所に、「私」を大切にする「公」というわが国の伝統が窺われる。
続く
No.304 ん
13/03/28 21:46:05
国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130
★特に >>130
「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか >>274>>275>>276>>277>>278>>280>>281>>282
国柄探訪:「公」と「私」と(日露戦争)>>298>>299>>300>>301>>302>>303