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<義実家が請求>住まないのにリフォーム代を
13/03/28 18:18:43
>>264 注:現代に当てはめては考えないように。あくまで、その当時のこととして捉えて下さい。 国際派日本人養成講座 平成10年8月8日 ◆国柄探訪:「公」と「私」と ■1.「公」と「私」■ 小林よしのりの「戦争論」(幻冬社)が発売早々、20万部と売 れている。 読みやすい漫画ながら、大東亜戦争における「公」と「私」という大変重いテーマを取り上げた大作で、読者にも一読をお勧めする。 「私」とは自分や家族のため、「公」とは国家公共のため。 一度戦争になれば、国民は「私」の部分を犠牲にして「公」につくさねばならない。 さもないと、国民すべての「私」もなくなってしまう。 明治日本が南下するロシアに対峙した時がまさしく、そういう状況であった。 当時の日本人が、この問題にどう対処したのか、その赤裸々な声が「山桜集」という歌集となって残っている。 今回は、これらの声を通じて「公」と「私」の問題について、考えてみよう。 ■2.近づく怪雲■ ロシアが全満洲を占領したのは、1900年10月。 その過程で、7月には黒竜江東岸ブラゴウェシチェンスクにおいて、シナ人3千人を駆り立て、黒竜江に突き落として虐殺するという「黒竜江上の悲劇」を引き起こした。 ロシアが満洲、朝鮮と南下すれば、虐殺されたシナ人の運命は、明日の我が身かも知れない。 当時、第一高等学校の記念寮祭歌として作られた「アムール川(黒竜江)の流血や」はその予感を伝える。 アムール川の流血や 氷りて恨み結びけん 二十世紀の東洋は 怪雲空にはこびつつ ロシアは1903年、韓国領の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、要塞化を進めた。 こうして「怪雲」の予感は、着々と現実のものとなっていった。 続く
13/03/28 18:22:21
>>298 ■3.決死の宣戦布告■ 明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略 意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。 もとよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの 決断であった。 時の総理、伊藤博文は次のように語っている。 若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロシア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍 (一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむべし いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、というのである。 負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同様、植民地として隷従しなければならない。 この危機感は明治天皇から国民までが共有したものであった。 事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をもってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下る。 明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対してお詫びのしようもない、と涙を流された。 天皇は日露戦争中の御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の病で崩御されるのである。 続く
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古トピの為、これ以上コメントできません
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>>299 ■4.進軍の道すがら■ 軍人(いくさびと) すすむ山路をまのあたり 見しは仮寝の ゆめにぞありける 明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事もあった。 その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける者もいた。 進軍の道すがら (陸軍少将 中村寛) 道すがら あた(敵)の屍(かばね)に 野の花を一もと折りて手向けるかな 敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであった。 国のため あだ(仇)なす仇はくだくとも いつくしむべき事な忘れそ ■5.満洲の寒さ■ 戦場となった満洲の寒さは厳しい。 しかし、その寒さにも兵士らがまず思うのは、故郷に残した家族の事であった。 このごろ 寒さ一入(ひとしお)に 厳しければ故郷に病める 母の御身の上を思はれて 病なき 我だに寒しこの頃は いためる母のいかがあるらむ その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。 いたで(戦傷)おふ 人のみとりに心せよ にはかに風のさむくなりぬる 急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取りであった。 寝覚めして まづこそ思へつは もの(兵士)のたむろ(集まっている所)の 寒さいかがあらむと 目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事であったのである。 続く
13/03/28 21:46:05
国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130 ★特に >>130 「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか >>274>>275>>276>>277>>278>>280>>281>>282 国柄探訪:「公」と「私」と(日露戦争)>>298>>299>>300>>301>>302>>303
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上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。
No.298 答えにはならないかもけど
13/03/28 18:18:43
>>264
注:現代に当てはめては考えないように。あくまで、その当時のこととして捉えて下さい。
国際派日本人養成講座
平成10年8月8日
◆国柄探訪:「公」と「私」と
■1.「公」と「私」■
小林よしのりの「戦争論」(幻冬社)が発売早々、20万部と売 れている。
読みやすい漫画ながら、大東亜戦争における「公」と「私」という大変重いテーマを取り上げた大作で、読者にも一読をお勧めする。
「私」とは自分や家族のため、「公」とは国家公共のため。
一度戦争になれば、国民は「私」の部分を犠牲にして「公」につくさねばならない。
さもないと、国民すべての「私」もなくなってしまう。
明治日本が南下するロシアに対峙した時がまさしく、そういう状況であった。
当時の日本人が、この問題にどう対処したのか、その赤裸々な声が「山桜集」という歌集となって残っている。
今回は、これらの声を通じて「公」と「私」の問題について、考えてみよう。
■2.近づく怪雲■
ロシアが全満洲を占領したのは、1900年10月。
その過程で、7月には黒竜江東岸ブラゴウェシチェンスクにおいて、シナ人3千人を駆り立て、黒竜江に突き落として虐殺するという「黒竜江上の悲劇」を引き起こした。
ロシアが満洲、朝鮮と南下すれば、虐殺されたシナ人の運命は、明日の我が身かも知れない。
当時、第一高等学校の記念寮祭歌として作られた「アムール川(黒竜江)の流血や」はその予感を伝える。
アムール川の流血や
氷りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはこびつつ
ロシアは1903年、韓国領の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、要塞化を進めた。
こうして「怪雲」の予感は、着々と現実のものとなっていった。
続く
No.299 続き
13/03/28 18:22:21
>>298
■3.決死の宣戦布告■
明治37年(1905年)、5ヶ月の対ロ交渉で、ロシアの侵略 意図をとどめる事ができず、我が国はついに宣戦布告を行った。
もとよりロシアは世界の大国、勝てるという見込みの立たないままの 決断であった。
時の総理、伊藤博文は次のように語っている。
若(も)し不幸にして戦(たたかい)利あらず、韓半島露軍(ロシア軍)の奄有(えんゆう、占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯徳(ウラジオストック)の艦隊、我が海軍を撃破し、我が海洋を制圧するに至らば、余は自ら銃剣を挈(ひっさ)げて卒伍 (一兵卒)に投じ、敵兵をして一歩だに我が領土を踏まざらしむべし
いざとなれば、自ら一兵卒になって祖国防衛の第一線に立つ、というのである。
負ければ、他のすべてのアジア、アフリカ諸国と同様、植民地として隷従しなければならない。
この危機感は明治天皇から国民までが共有したものであった。
事乃一蹉跌を生ぜば(失敗するような事があれば)、朕何をもってか祖宗(御祖先の歴代天皇方)に謝し(お詫び申し上げ)、臣民に対するを得んと、忽(たちま)ち涙潸潸(さんさん)として下る。
明治天皇は、もしそのような事があれば、皇室の祖先と国民に対してお詫びのしようもない、と涙を流された。
天皇は日露戦争中の御心労で食事も極端に進まず、それが原因となって8年後に肝臓の病で崩御されるのである。
続く
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No.300 続き
13/03/28 18:31:26
>>299
■4.進軍の道すがら■
軍人(いくさびと)
すすむ山路をまのあたり
見しは仮寝の
ゆめにぞありける
明治天皇は夢の中で、我が兵士らの行く山路の様子を見られる事もあった。
その進軍の道すがら、敵兵の死体にそっと花を手向ける者もいた。
進軍の道すがら
(陸軍少将 中村寛)
道すがら
あた(敵)の屍(かばね)に
野の花を一もと折りて手向けるかな
敵として戦っても、戦い終われば、人として「いつくしむ」事を忘れてはならぬ、という天皇の次の御歌を体現した武人の情けであった。
国のため
あだ(仇)なす仇はくだくとも
いつくしむべき事な忘れそ
■5.満洲の寒さ■
戦場となった満洲の寒さは厳しい。
しかし、その寒さにも兵士らがまず思うのは、故郷に残した家族の事であった。
このごろ
寒さ一入(ひとしお)に
厳しければ故郷に病める
母の御身の上を思はれて
病なき
我だに寒しこの頃は
いためる母のいかがあるらむ
その寒さについて明治天皇は次のような御歌を詠まれている。
いたで(戦傷)おふ
人のみとりに心せよ
にはかに風のさむくなりぬる
急に寒さが増して、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取りであった。
寝覚めして
まづこそ思へつは
もの(兵士)のたむろ(集まっている所)の
寒さいかがあらむと
目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、兵士らの事であったのである。
続く
No.304 ん
13/03/28 21:46:05
国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130
★特に >>130
「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか >>274>>275>>276>>277>>278>>280>>281>>282
国柄探訪:「公」と「私」と(日露戦争)>>298>>299>>300>>301>>302>>303