特攻隊、貴重映像 へのコメント(No.127

  • No.125 つづき

    13/03/23 22:21:07

    >>123
    「隠忍久しきに弥(わた)りたるも」、このままでは、日本の存立も危うくなるとして、ついに自存自衛のために立ち上がったことを述べている。

     清水さんの言う「隠忍自重の末、戦争に踏み切らざるを得なかった日本、積年の憤懣の爆発」とは、まさにこの詔勅の思いそのままを述べている。

    ■4.「宣戦の詔勅を拝して、泣かぬものがあったろうか」

     昭和16年12月8日、多くの国民が、この開戦の詔勅をラジオで聞き、涙を流した。

    何人もの作家、学者がその日の思いを記している。
    __________

    火野葦平(作家)

    私はラヂオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった。

    この感動は私ひとりではあるまい。

    全国民が一様に受けた感銘であろう。

    宣戦の詔勅を拝して、泣かぬものがあったろうか。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    __________

    坂口安吾(作家)

    僕はラヂオのある床屋を探した。

    やがて、ニュースが有る筈である。

    客は僕ひとり。

    頬ひげをあたっていると、大詔の捧読、つづいて、東條首相の講話があった。

    涙が流れた。

    言葉のいらない時が来た。

    必要ならば、僕の命も捧げねばならない、一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    __________

    清水幾多郎(社会学者)

    宣戦の大詔を拝して、私は凡(すべ)ての国民と同じように涙を禁ずることが出来なかった。

    日本がアメリカに勝つためには、日本の思想がアメリカの思想に勝たねばならぬ。

    ・・・私はこの仕事のために微力を儘(つく)すことを最高の義務と考えている。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     祖国が万邦共栄を求めながらも、ついに自存自衛をかけて、米英という世界最強国に戦いを挑まざるを得なくなった。「豈(あに)朕が志ならんや」との昭和天皇の悲痛なお言葉に、国民は涙したのである。

    つづく

  • No.127 つづき

    13/03/23 22:26:03

    >>125
    ■5.一女子学生の戦い

     その涙から、国民一人一人が、祖国の生き残りのために自分の持ち場で国民としての義務を果たそうと立ち上がった。

    女子学生であった清水公子さんもその一人だった。
    __________

     私達は直接戦力とはなりませんが少しでも実力をつけ様と、学期間の休暇には各病院の各科に見学に行きました。

    また当時、貧困家庭への医療救済公的制度がありませんでしたので、気の毒なこれ等の人々を救うべく、夏休みを利用して周辺小学校を借り受け「無料診療所」を開設致しました。

    女子医専独特の年中行事でした。

     学生達は二交替で休暇の半分を返上して医局員に協力、貧しさ故に医療を受けられない人々に愛の手を差し延べ、同時に自分達の勉強ともなりました。

     日曜日には皇居前広場へ「もっこ担ぎ」に参りました。

    学校の名誉にかけてもと重い土運びに掛け声を掛けながら頑張りました。

    今の皇居前広場は当時の学生が汗を流して作ったのです。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

     しかし、戦局は次第に劣勢となり、空襲が始まった。

    家の前に防火用水槽を作り、町会でたびたびバケツリレーなどの消化練習を行うが、敵は無数の爆弾を雨霰(あられ)と落とすので、逃げるのに精一杯だった。
    __________

     文字通り火の海の中を逃げ惑う民衆の上に、これでもかこれでもかと追い打ちをかけ、更に石油を撒くのです。

    阿鼻叫喚、すさまじい地獄絵さながら、悲惨さこの上もありません。

    石一つ投げられない無抵抗な女・子供・老人達に対し、敵は皆殺しを図ったのです。

    連日のあくなき無差別爆撃(軍事施設と民家の別なく)に多くの国民が命を落とし、傷つき、家を失い、みるみる焼け野原と化していきました。

     この様にされても国民は挫けませんでした。

    何回も空襲に遭い無一物になりながら、「何もかも無くなり、さっぱりしたよ」と、誠に意気軒昂でありました。
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

    つづく

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返信コメント

  • No.128 つづき

    13/03/23 22:28:48

    >>127
    ■6.「又明日命があったらお目にかゝりませう」

     戦力増強のため、各学校は6ヶ月繰り上げ卒業となり、清水さんは昭和19年9月30日、東京女子医専を卒業した。
    __________

     一日の休みもなく10月1日から千葉医大(現、千葉大医学部)の医局員となり、まだ22歳と5日しかない娘医者ながら精一杯頑張りの生活に入りました。

    男性医師は次々と招集され、我々新米医は文字通り病院中を走り廻り、また寸暇をみては本を開きました。

     明日死ぬかもしれない。

    折角医者になったのだから今のうちに少しでも勉強しておこうと思ったからです。・・・

     一日の仕事を終えて家路に着くのは大抵8時頃になりました。

    真っ暗な夜道を友人達と腕を組み、女学校で習ったロマンチックな歌を口ずさみながら駅へと急ぎました。

    当時は燃料も乏しくなり、バスは運行停止、30分の道のりをすき腹を抱え、それでも元気一杯スタスタと歩きました。

     友と別れる時、「又明日命があったらお目にかゝりませう」がさよならの挨拶でした。

    今夜の空襲で死ぬかもしれないからです。

    既に死への覚悟は出来てゐました。

    国に殉ずるのに何のためらひもなかったのです。

     灯火管制下の真っ暗な人通りのない夜道を、若い娘が一人で歩いてゐても痴漢など全く出ませんでした。

    国家の為、真剣に生きる日本国民に一人として遊んで居る者や悪事を働く者は居りませんでした。

     互いに励まし合い扶け合い、誠に美しくよき時代でありました。

    豊かになり平和になった現代の方が、どれだけ人の心の荒んでゐることでせうか。

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    つづく

  • No.139 よく読んで

    13/03/24 09:57:32

    >>132
    国際派日本人教育講座より>>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130

    特に>>130

    戦争に反対することと、日本を卑下することは全く別の視点。混同してはいけない。日本人が日本という国を国旗や国歌を蔑ろにするのは、戦争に反対することとは別の話でしょう?きちんと理解しよう。

  • No.175 はい

    13/03/24 16:03:35

    国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130

    ★特に >>130

    戦争に反対することと、日本を卑下することは全く別の視点。混同してはいけない。日本人が日本という国を国旗や国歌を蔑ろにするのは、戦争に反対することとは別の話でしょう?きちんと理解しよう。


    http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=1728138
    http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=2136831&sort=1

  • No.238

    13/03/24 22:04:02

    国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130

    ★特に >>130

    日教組トピ(教科書詳細有り)
    http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=1728138

    保守トピ(長文のみ。読解力と探求心、向上心のある方へ)
    http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=2007485

  • No.304

    13/03/28 21:46:05

    国際派日本人教育講座より >>121>>123>>125>>127>>128>>129>>130
    ★特に >>130

    「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか >>274>>275>>276>>277>>278>>280>>281>>282

    国柄探訪:「公」と「私」と(日露戦争)>>298>>299>>300>>301>>302>>303

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