デザイナー(インテリア)
9/28(土) 6:00配信
去年2023年10月に放送されたドキュメンタリー作品『最期を選ぶ ~安楽死のない国で 私たちは~』。
放送後、「2024年日本民間放送連盟賞」優秀賞、「第32回FNSドキュメンタリー大賞」優秀賞、「ニューヨーク・フェスティバル2024」のドキュメンタリー・Human Rights(人権)部門銅賞など、国内外の数々のメディアコンクールで受賞を重ね、大きな反響を呼びました。
このドキュメンタリー制作を通じて“安楽死の現場”を取材し続け、自らの最期を選ぶ人々やその家族と向き合い続けた山本将寛ディレクターが、4年にわたる取材を通じて目の当たりにし、感じたことを手記にまとめました。
(以下、山本将寛 記)
「“ママ、スイスに行っていいよ”って言ってくれてありがとう。みんな、元気でね。」これは、安楽死を遂げた44歳の女性が、夫と2人の娘に最後に残した言葉です。
取材者として現場で聞いたこの言葉は、強く、重く私にのしかかり、今もその意味を考えることがあります。
彼女たちを取材することになった経緯、映像には収めきれなかった現場での実際をつづります。
<取材のお断りから一転>
2023年4月。「安楽死」をテーマとしたドキュメンタリーの制作に向けて取材を進めていた私は、SNSで「安楽死する権利を手に入れた」と書き込んでいた女性にコンタクトをとりました。
すると、彼女から丁寧な返事が。それは「家族に迷惑をかけられないので、取材には応じられない」という旨のものでした。
その年の10月。約3年にわたる取材を終えた私は『最期を選ぶ ~安楽死のない国で 私たちは~』という番組を放送。
すると、一度断りの連絡があったその女性から連絡がありました。
番組を見て、取材に応じる気持ちになったというのです。「私のケースが参考になれば」と。
その女性こそが、マユミさん、当時44歳。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d15c495bc6e769e8ef1bf8c00448c442ee7e67ad
>>1に続く
古トピの為、これ以上コメントできません
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No.13 ユーチューバー
24/09/29 08:06:03
余命宣告の時期が子どもの受験と同じだから受験に少しでも影響ないようにって安楽死を選択したんじゃなかった?
返信
No.12 パティシエ
24/09/28 21:15:44
スイスに行った時にはもう体調も良くなくてやっと行けたって感じだったのかな?
それだけ病気が進行していて苦しんでいたのならこの選択肢も認めても良いと思うなあ。
寝たきりになってからだと自分の意思を伝えることも出来なくなって辛いだろうし。
返信
No.11 デザイナー(ファッション)
24/09/28 17:09:05
このドキュメンタリーは観てなくて、トピ文だけを読んでの私の感想。
12歳の子供なら、安楽死というものがどういうものか分かってないと思う。分からないけど納得せずにいられない状況で母親を見送ったのでは?歳を取るにつれ、だんだんと分かってきて後悔する時が来るかも知れない。一度亡くなった命は2度と取り戻す事は出来ない。幼い子供にとっては過酷すぎるよね。トラウマレベルだと思う。子供が病まずに元気に過ごしていけたらいいけど。
返信
No.10 獣医師
24/09/28 16:26:00
たぶんこれ観たと思うけど全く心に響かなかった。この方寝た切りじゃなかったしハッキリ言ってじさつでいいんじゃないのかね。
知ってる人に同じような病気でじさつした人もいるから。
返信
No.9 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:49:06
<ライン川のほとりのカフェ>
マユミさんの旅立ち 夫と娘 家族のその後その日のうちに帰国便に乗る予定だった夫のマコトさんには、1つだけやり残したことがありました。マユミさんが行きたかったというライン川のほとりにあるカフェに代わりに行くことです。
路面電車を乗り継ぎ、カフェに着きました。
「後ちょっとで、妻も来れましたね」
実はスイスに着いた翌日、医師との面談を終えた夫婦は、ランチをしにすぐ近くまで来ていました。
レストランでの食事を済ましてカフェにいく予定でしたが、体調がすぐれず、ホテルに戻ったのです。
レストランからその行きたかったカフェまで、歩いて数分の距離でした。
マコトさんはそのカフェで川を見つめながら、妻と最後に聴いたという『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章』をスマートフォンから小さな音で流していました。
返信
No.8 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:47:58
医師はマユミさんが横になっているベッドの横に座ると、最終確認を行いました。
「この点滴を開けるとどうなるかわかっていますか?」
「私は死にます」
「死を望む気持ちが確かなら、この点滴を開けていいですよ」
その言葉を聞き、頷いたマユミさん。
点滴のバルブを見つめながら、自問自答していたのでしょうか、数秒の沈黙がありました。
覚悟が決まったのを察した夫から「ありがとうな」と、言葉がかけられると、それに続いて娘たちも、「ママ大好き」「また会おう」と涙ながらに母への言葉を送りました。
マユミさんはそっとバルブを開けました。
「スイスに行っていいよって言ってくれてありがとう。みんな、元気でね。」
その言葉を最後に、夫の腕に添えていた手から力が抜けていき、深い眠りにつきました。
夫は、その現実をまだ受け入れられてないようにも見えました。
上を見て、下を見て、ため息をつく。
そんな時間が永遠のように繰り返されました。
返信
No.7 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:46:37
「マコトさんは何か言ってほしい言葉はないんですか?」
「あー、聞いたことないけど、『愛してる』。」
多くを語らないマコトさんから出た、意外な言葉でした。
照れながらも、私が持つカメラに「愛してる」と、マユミさんが言いました。
明るく、笑いながら、ボイスメッセージの撮影が終わると、マユミさんは私にあることを問いかけました。
「最期のその時まで、ビデオ通話を繋げていてもいいのでしょうか?」
問題ないはずだ、と伝えると、どうするか、家族で話し合いますとのことでした。
<「みんな、元気でね」>
安楽死当日。
これまでの思い出を朝まで夫婦で語り合っていたという2人は一睡もしなかったそうで、どこか疲れ切っているようにも見えました。
安楽死の施設に向かうタクシーの中では沈黙が続きました。
窓の外をじっと見つめるマユミさんを乗せた車は、30分ほどで施設に着きました。
医師たちとの挨拶を済ませると、マユミさんはすぐに娘たちとテレビ電話を繋ぎました。
昨晩家族で話し合い、娘たちも最期を見届けることになったのです。
家族だけの最後の時間を1時間ほど過ごすと、夫のマコトさんが部屋から出てきて「お願いします」と医師に声をかけました。
返信
No.6 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:45:41
私は、マユミさん一家はそれぞれがそれぞれに覚悟を決めた強い家族だと思っていましたし、実際にその通りだと思います。
しかし、その覚悟と強さというのは、答えが出ることなどないのにもかかわらず、それでも最後の最後まで何が正解なのか悩み続ける、その苦しみから生まれているものなのだ、ということを、私は次女のLINEに教えられた思いがしました。
<娘たちに残したボイスメッセージ>
安楽死前日~当日 マユミさんが娘と夫に残したボイスメッセージスイスに到着し、翌日には医師との面談がありました。
「娘さんたちはなぜ来なかったのか?」という医師の問いに、「最期の姿を娘たちに見せるのがいいのか、その答えが出る前に渡航日になってしまった」と本音を語ったマユミさん。
スイスに渡ってもなお、解決していない悩みはたくさんあったようでした。
安楽死の前日、私はマユミさんにある頼まれごとをしました。
「娘たちにボイスメッセージを頼まれているのですが、手伝ってくれますか?」こうして私は、娘たちに向けたボイスメッセージを撮影することに。
「おはよう」「おやすみ」「大好きだよ」…娘たちから送られてきていたリストを1つ1つ、照れながらも丁寧にマユミさんはカメラに向かって読み上げていきました。
夫のマコトさんが何か言いたそうな顔をしているように私には映りました。
返信
No.5 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:44:30
母 「やっぱり安楽死なんかしてほしくなかったよね」
次女「うん」
母 「それはほんとにごめんね」
次女「大丈夫」
母 「病気になったのがごめん」
次女「大丈夫」「ママは悪くない」
母 「ママはどうしたらよかったのか答えがないんだよ」「どれを選んでも悲しいからさ」
次女「もうちょっとするの遅くできなかったの?」
母 「それもわからない
次女「できたかもしれないん?」
母 「うん。でもこれ以上遅かったらスイスに行けなくなってたかもしれない」
次女には、母親のマユミさんに面と向かって聞けなかったことがたくさんあったようです。
12歳の小学生にとっては、おそらくは計り知れないたいへんな決心をしてマユミさんにメッセージしたのだと思います。
返信
No.4 自衛隊(海)
24/09/28 15:44:25
このニュース見たんだけど、去年の10月に放送された安楽死のドキュメンタリー作品にマユミさんは出てきてるの?
返信
No.3 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:43:43
<12歳の娘からのLINE>
マユミさん一家と直接お会いするのは、この空港が2回目。
私は娘たちに、母の安楽死についての話を深く聞く勇気を、まったく持ち合わせていませんでした。
そんな中、マユミさんが私に見せてくれた、次女からマユミさんに宛てたLINEがあります。
「これが次女の本心だと思います」と。
(LINEでのやりとり)
次女「ママは安楽死したいの?」
母「しなくてもいいならしたくないけど安楽死しなくてももうすぐ死んじゃうんだよ」
次女「可能性は一個もないん?」
母「ない」「だから少しでもいい形でみんなとお別れしたくてママの苦しんでいる姿を見せたくないなと思っていっぱい悩んだけど安楽死を選びました」「末期がんていってここまできたらあとは死を待つだけやねん」
次女「そうなの」「じゃあ」「もし私たちがとめててもやった?」
母 「それは難しい質問ですね。あと1ケ月長く生きれたとしてそれは面会もできない病院にずっと入院してたり、家にいても痛くて泣き叫んだり脳の病気だから性格が変わってしまうんだけど今のママとは別人の例えばずっと怒鳴り散らしたり」「そういうことがこれから起こってくるけどみんなはそれをどう思う?ってもっと話し合ってたかもしれない」
次女「そっか」
返信
No.2 匿名
24/09/28 15:42:45
トピあるよ
返信
No.1 主 デザイナー(インテリア)
24/09/28 15:42:37
彼女の病歴を辿ると、子宮頸がんから膣、膵臓、肺、頭皮、さらには脳へとわずか3年のうちにがんが転移を繰り返しており、実はこの放送があった10月に、がんが脳に転移していることが判明したのです。
そして、その翌月にスイスで安楽死することを決めていました。
こうして私は、マユミさんを取材することになったのです。
<好きなように生きなさい>
空港で娘たちとの別れ…LINEにつづられた12歳次女の本心マユミさんには18歳と12歳の2人の娘がいて、娘たちにとってどんなお別れがいいのか、悩み続けていました。
家族で話し合った結果、娘たちは日本に残り、夫と2人でスイスに行くことになりました。
11月6日、月曜日の早朝。
空港に着き、別れの時間まで1時間ほどありました。
「何か言っとかなあかんことは?」という夫の問いに「なんとでもなるから、好きに生きたらいい」と、娘たちに言葉をかけ、それぞれが設えた手紙を交換すると、涙ひとつ見せずにお別れしました。
悲しい別れにしないように、と家族で決めたことだったといいます。
でも、母が背を向けて保安検査場に向かうと、娘2人も後ろを向き、こらえていた涙が。
「お母さんの写真、いっぱい撮ってきてください。」娘たちからそんなお願いを受け、私はマユミさん夫婦と同じ便に乗りました。
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