- なんでも
- 真愛
- KDDI-SA31
- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
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あさんのレスで泣いてしまった…
レスありがとうございます。薬は飲んでましたが放射線治療前です。本当に急に悪くなってしまったので…
放射線とか薬飲んでる最中に妊娠されたんですか?
↓↓あさん
辛かったですね
(´;ω;`)
ゆったり進みましょうね☆無理しないでね
辛かったね…
全然トピズレじゃないよ。
何でかわけわからなくなってしまって独り言になってしまいました。トピズレですよね…申し訳ありませんでした。
誰にも言えないからココで吐き出しちゃおうかな。私は去年の夏、旦那を亡くしました。胃癌です。最初は体調おかしい、仕事の疲れかな?その程度でした。病気がわかっても、泣く私の隣りで手術すれば大丈夫!またすぐ退院出来るから!そしたら子供(当時3才♂)と旅行いきたいな!そう言ってました。本人が一番不安だったはずなのに、励まされて情けない私です。でも手術段階で転移が見つかってました。若いから進行が早いらしいです。でもまた手術すれば治療すれば治るんだと思ってました。でもそう思えたのは最初だけでした。放射線治療で具合が悪い…薬で気持ちが悪い…何をしたらいいのか本を読みあさった。ネットも一日かじりついた。漢方、運動、考えつくことは何でもした。合間に妊娠が発覚しツワリで酷いながらの看病。でも時間って残酷で先生方がどんなにいい治療をしてくれても癌はどんどん進行して。夜中に酷い筋肉痛みたいだ全身が痛い、足擦ってくれ背中擦ってくれ…違うよ。筋肉じゃないの。骨に転移してるんだよ。頑張って擦って夜中何回も起きてもう疲れたよ名前呼ばないでよ布団に潜って聞こえないふりする私。でも苦しそうで起きて、どこ?どこ擦ったらいい?毎日その繰り返し。たった一年間で入退院繰り返し病気も進行しました。子供が産まれたとき、泣きながら喜んでくれた優しいパパ。無理して杖つきながら帰ってきたパパ。ベッドに寝てる子供たちを見て泣きながら笑うパパ。なんで泣くの?って私までなんでか一緒に泣いたね。下の子まだ産まれて一か月にもならないのに、ベロベロバーなんてあやして「いつ笑うんだろ?」って私が「3~4ヵ月くらいかな?」って言うと「楽しみだな」って。それから一か月、容体が急変…救急車で搬送されモルヒネで意識混濁。毎夜うなりながら目はうつろ。4才の娘と2ヵ月の息子を残して去年8月、晴れた朝天国に旅立ちました。一年たってやっと納骨も済みました。あなたが空から見てくれてるのか…と立ち直ることは難しいけど空を見上げることが出来るようになりました。今でも思う。下の子の笑った顔がみたいって言ってたじゃない。私を置いて行ったりしないって言ったじゃない。旅行の約束は?上の子供とディズニーランド行きたいって行ったでしょ?まだまだ全然写真も想い出も足りないの。あなたを火葬するとき、どんなにビックリしてもいい起きてくれないかと思った。このレスを書きながらまた涙がとまらない。時間が過ぎても昨日のことのよう。時間が過ぎるのが怖くて仕方ないのに、時間はとまらない。まだ前向きに歩くなんてできないの。まわりがまだ24才なんだから再婚だって…なんて言う。うるさいうるさいうるさい。まだあなただって26才だった。なんでこんなに早く?神様なんて信じない私。神様がいたならきっとあなたをこんなに早く連れて行かないもん。
一卵性双子の話とても辛いですね。一人の子が亡くなった子を蹴っていた…生きていた一人の子も助からなかったのかな。ごめんなさい。辛い事聞いて。
…泣
おばあちゃんと、我が子の話は泣ける
こーゆうの読むと、特に子どもや旦那関係の話は自分と置き換えてしまって、せつなくなって苦しくて不安になって眠れない…。
私が高校二年の時、おばあちゃんが風邪をこじらせ入院すると聞いた。
小さい頃から可愛がられ、初孫だったから尚更だった。私もおばあちゃんが大好きで、小さい頃は度々遊びに行ったりしていたものだった。
当時私は私立の女子校を辞め、定時制の学校に行っていた。生活は今までと一転し、ヤンキーみたいな格好をしていたので、古い考えだったおばあちゃんには会いたくなかった。
ある日家族でおばあちゃんのお見舞いに行くという話になり、『ただの風邪なのにまだ入院してるのかー』と考えながら私も同行した。
病室にはいると、足腰は弱っていたけど、いつも元気なおばあちゃんが寝ている。
『○○だよ!お見舞いにきたよ!』というと『○○かぁ~わざわざ来たのかぁ~』と会話をした。少ししたら看護婦さんが来て「ご家族の方はちょっとでていてくださいね」と言われた。
待っていると、排便や排尿の臭いがした。
『え?ただの風邪でオムツなんて使うの?』と違和感を覚え、もう入ってもいいですよと言われたので、おばあちゃんのところに行き、『スッキリした~?』と聞くと『どちら様ですか?』と真顔で聞かれた。
『えっ・・・・。』言葉がでなかった。離れていたのはほんの五分。一番可愛いと言っていた初孫の私を忘れてる・・・。
『○○だよ!おばあちゃんの初孫の○○だよ!わかるでしょ!?』という問いかけにも曖昧な返事・・
その日はもう何もしゃべれなかった。
帰ってから親におばあちゃんは糖尿病からの合併症で色々な病気が見つかり、認知症も進んでいる。内臓も色んなところが痛んでいて、口から物も食べられないと聞いた。
後日、1人でお見舞いに行った。
この前とは違って私のことはわかっているが、酸素マスクをつけ、点滴がついている。
糖尿病で太っていたおばあちゃんは肉が無くなりやせ細っていた。
おばあちゃんの細くなった手をにぎって『早くよくなってね』って言ったとたん、涙があふれてしまった。
するとおばあちゃんは『○○?なんで泣いてるの?大丈夫か?』と言った。
もう涙が止まらなくて、『大丈夫だよ・・!おばあちゃん早く退院してよ。早く帰ろうよ。』と泣きながら話した。
可愛い孫が泣いているのを見て心配なのはわかるけど、今ばかりは自分の心配しようよ、元気になってくれればもう泣かないから・・・。と思って黙っていると『大丈夫、大丈夫だよ』と言われた。
それから何日か後の夜中に、親戚から連絡が入り今夜が山だと聞かされた。
病室は個室に変わっていて、もう意識はなかった。
お母さんはこのまま残るということになり、○○はどうする?と言われた。
高校生ながらに息をしているおばあちゃんに会えるのはこれが最後だと思った。
『私は明日バイトがあるから、お父さんと一緒に帰る。』と言った。
本当は一緒に残りたかった。でも私が産まれてから、たくさん可愛がってくれたおばあちゃんの最後の印象を苦しんで死、ぬ印象にしたくなかった。この前お見舞いに言ったときの心配をしてくれる優しいおばあちゃんのままで覚えていたかったから・・。
家に帰ってすぐ、おばあちゃんが死、んだと、お母さんから連絡がきた。
病院から帰ってきたおばあちゃんは、いつもの布団で寝てた。まるで眠っているように・・。
『おばあちゃん!やっと帰って来れたね!!』と頬を触ると、冷たくて固くて、これが死、ぬということなんだと思った。
真夏の炎天下の中お通夜、告別式が行われ、火葬場に着いた。
体をやくという事は知っていたけど、本当に見るのは初めてで、半信半疑で出席していた。
いざ出棺の時になると、おばあちゃんが入った箱は炎が見えるところに入れられた。
言葉もでなかった。
涙もでなかった。
頭の中は真っ白だった。
すると、「おかあさん!おかあさぁん!!」とお母さんが泣き叫んだ。お母さんのよろける体をお父さんが支えていた。
その声を聞いて我に返った。
おばあちゃんは燃やされて、居なくなってしまう、もう会えなくなるとその時突然頭に浮かび、気付くと『おばあちゃん行かないで!お母さんが泣いてるよ!!おばあちゃん!おばあちゃん!』と叫んでいた。
その後のことはよく覚えていないけど、燃やされて出てきたおばあちゃんの骨は、年の割には少なくて、病気という悪魔が全身という全身を犯していたのだと思った。
その二年後、おばあちゃんに良くしてくれた看護婦さんを見て私は介護士になった。
おばあちゃんが夢を与えてくれたのだと今も思っている。
本当は高校卒業したのも成人式も結婚したのも子供を産んだのも、全部見て欲しかった。
おばあちゃん、今までありがとね。
丁度ヤンチャしてた頃だから、心配してるでしょ?心配かけてごめんなさい。
でもあの時より少しは大人になったよ。
これからも、そばで見守っていて下さい。
今でもおばあちゃんが大好きです。
いつまでも忘れないよ。
私の父さんと母さんは若くして結婚した。それから私が産まれた。父さんは仕事を頑張っているのに母さんは浮気と借金の毎日。私が一歳半になった頃、母さんは浮気相手の子供を妊娠して私の服、オモチャ、ベビーカー全て持って出て行き借金を残して離婚。
父さんは一生懸命、私を可愛いがってくれた。大事にしてくれた、母さんのぶんも。他の家族よりも。ちっちゃいケガひとつでも、すごい心配してくれる。そんな父さんが大好きだった。小学生になってから父さんは病気で入退院を繰り返す日々。私は婆ちゃんの家で暮らす日々。父さん疲れたんだよね。母さんのぶんまで私を可愛いがって一生懸命に仕事して私を育ててくれて。
小学5年になったある夜。父さんと私はドラマを見ていた。マンションから飛び降りるシーンがあった。ドラマを見終わり父さんは「タバコを買いに行ってくる」と言った。私は「わかった」と言った」父さんはカギを持たずに出て行こうとしたから私は「カギ忘れてるよ」と言った。父さんは「いらない」と言った。私は何でだろと思いながらもすぐに寝た。
朝になっても父さんは帰らなかった。婆ちゃんに言うと「そのうち帰ってくるやろ」と言った。私も婆ちゃんと同じ事を思いながら学校に行った。それから授業中に先生から呼び出され「すぐに家に帰りなさい」と言われた。私は何でだろと思いながらも足早に帰った。
家には親戚、婆ちゃん、じいちゃん皆が集まっていた。部屋に入ると父さんが白い顔して棺桶で眠ってる。一瞬何が起こったのかわからなかった。
婆ちゃんが「父さん、マンションから落ちて死んだんや」って言われた。それを聞いて涙が一気に溢れ出し声が枯れそうなくらいに泣いた。昨日のドラマもカギの事も思いだした。「何で私を置いてったの」「何で死んだの」「何で私の傍にいてくれないの」「父さんが大好きなのに」「私の父さんは父さんしかいないのに」「またカラオケ連れていってよ」「大好きな歌うたってよ」「また遊んでよ」「可愛いがってよ」「また電車で遠い所に遊びに連れてってよ」「またホッペにスリスリしたりこしょばしてよ」「手つなごうよ」「喋ろうよ」「一緒にご飯食べようよ」
いろんな事を思い何時間も何時間も泣き叫んだ。それから棺桶の父さんの横に皆と私、菊の花を入れた。父さんの口に葉っぱで大好きなカフェオーレも飲ましてあげた。父さん飲まなかったね。いつも大好きで毎日飲むぐらいなのに。父さんの口開かないから飲まれないよね。ゴメンね、大好きなカフェオーレ飲ましてあげれなくて。最後に父さんの顔触ったの覚えてるかな?父さんのほっぺた触ったらすごい冷たいの。触ったらまた涙でてきちゃって父さんの顔濡らしちゃったね。ゴメンね。
翌日、私は黒い服着させられて父さんの写真持って黒い車に父さん乗せてどっかに行ったね。「今から燃やされるんだって。パパと離れるの嫌だよ。ずっと一緒にいてよ」こんなに思っても父さんは冷たく白いまま。知らない男の人が「今から始めます」「どなたかボタンおしますか?」だって。誰も返事しなかった。男の人はすぐボタンをおした。すぐ「ボッッ」という音が聞こえた。「父さんがいなくなる」「燃やさないで」また私は泣き叫んだ。家に帰り涙は止まらない。近所の人に「大丈夫?かわいそうに」って言われた。私は睨むしかなかった。数時間後また父さんの所へ行った。大好き父さんは、白い小さな骨になっていた。見たくなかったよ。ずっと一緒だと思ってたのに。箸で骨を拾っていく。泣きながら手を震わせながら小さくなった小さい父さんを小さいな箱の中に。父さんは疲れたんだよね。母さんの借金も払って私を一人で育ててくれて。だから空に行ったんだよね。もう充分、幸せもらったよ。お空でゆっくりしてね。
いつもいつまでも空で見守っていてね。父さんの子供に産まれてよかったよ。父さんに育てられて可愛いがられて本当によかったよ。でも父さんにまだ生きててほしかった。私の結婚式、子供、見て欲しかったよ、抱いてほしかったよ。
でも無理だよね。お空から見守ってね。いつまでもいつまでも。本当にありがとう。育ててくれて
鼻水ダーダーだよ(ノ_・。)特に子供の話は辛い…
泣ける話じゃないかもだけど!!何しても怒らないで優しくて心配してくれて味方になってくれたばあちゃんが大好きでばあちゃん以外信頼できる身内はいなかった。そんなばあちゃんが末期で入院中…ほぼ毎日小さい息子連れて往復一時間半かけて病院に行って色々と世話したり、色々あって疲れたりしてイライラして冷たくしてしまった時もばあちゃんは優しくて『もうすぐ誕生日だね?何がほしい?』って聞いてくれた…もう自分の力じゃ座ることも出来なくて…副作用とかで本当辛いはずなのに…その日の帰りに疲れてた私はまともに顔も見ず面倒臭そうに「じゃーね」 といったら優しく、寂しそうに『車だから危ないから気をつけてね。ばいばい』と言ってくれた。次の日はケンカ中だった親が行くといってから私は行かなかった。さらに次の日も。その日の夜亡くなった…私の誕生日の一週間前に…凄い後悔して始めて立てないくらいまで泣いた。今も物凄い後悔だけ残ってる…
途中まで読んだけど、涙が出てしょうがないや。
あげさせてください。
やべぇ涙ボロボロ(;_;)寝ようと思ってたのにこれじゃ寝れないや
泣ける
私はおばあちゃんが大好きだった。どんな時も優しかったから。でも、小さい時、家庭の事情でおばあちゃんに預けられた時、クラスメートに、親がいない事でいじめられて卑屈になってたから、事ある毎に辛く当たってしまったね。でもどんなに酷い事言っても優しかったね。本当にあの時はごめんなさい。
おばあちゃん、私が初めての妊娠で流産だった時、「大丈夫だよ。すぐにまた出来るよ。」と言ってくれたけど、そっけなく返事するのが精一杯だった。それから数日で、おばあちゃんは遠くにいってしまった。
葬式も四十九日も終わる頃妊娠発覚。おばあちゃんの言う通りだったね。双子だったよ!おばあちゃんびっくりするかな?一緒に喜んでくれたかな?
おばあちゃんにも曾孫見せたかった。双子見ておばあちゃんなら何て言ったかな?今の私、子供5人恵まれて幸せだよ!おばあちゃん、もう少しいくのが早かったよ……。
私おばあちゃんに何の恩返しも出来てないね……ごめんね。出て来るのはごめんねばっかりだね。あと大事な事伝えなきゃ。
おばあちゃん、ありがとう…
↓ありがとう
これは?
これでしょ
あげ
私の母方の祖父はとにかく子どもに優しい人でした。
一時期、私の父と母がもめて妹だけ連れて母は実家に帰ってました。
そしてそんなあまり良くない状況のある日、なんの前ぶれもなく倒れて亡くなりました。
私は父と暮らしていたのでお葬式はもちろん出たものなんだかかやの外って感じで、あまりおじいちゃんとはゆっくり居れなかった。
でも必ず、私の人生の節目に夢に出てきます。
出産で意識がもうろうとすれば励ましに来て、子が産まれたら玄関ピンポンして遊びに来る。
とにかく優しかったおじいちゃんが大好きです。
親のかわりも変だけど、最悪な状況で最後を迎えさせてごめんね。
最後はもう少しゆっくりいたかったなぁ。
ひ孫、だっこしてもらいたかったです。
母が亡くなった話だけど。
小学校の時に、母が急に具合悪くなって
1週間ぐらいずっと横になってた。
その間父と母が2人で夜間の病院行った時に、今から帰るからねって電話がかかってきた時に
姉にはわからないようにトイレでこっそり泣いた。
このままお母さんいなくなっちゃうんじゃないかってものすごく不安だった。
それから2日後心不全で母は亡くなっちゃった。
元気なときに、新聞にのってる旅行の案内見て
こんな所行ってみたいな~って言ってたから連れていってあげたかったな。
もっといっぱいいろんなこと話して、教えてほしかったし買い物も行きたかった。
何にも親孝行できなかった。
今でも毎日思い出す、大好きなママ。
施設で育ち、どうしても父に会いたくて会いたくて、貯金箱持って小学校一年の時に横浜から山形まで会いに行った事がある。トラックの運転手に乗せてもらい現地についた時はただ嬉しくて紙に書かれた住所を探して名前の書いてある家を見つけた時はすごく嬉しかった。だけど玄関の外におもちゃとか置いてあって中から子供の声が聞こえた時は来ちゃ行けなかった場所に来ちゃったんだって感じた。そのまま帰り警察に保護され施設に戻って泣いてたな。高等部のお姉さんが塩むすび作ってくれてずっと側にいてくたれ記憶が忘れられないや。
目が腫れそうだわ
読破あげ°・(ノД`)・°・
今を大事にしなきゃな。
私が15才の時、父が白血病になった。
抗がん剤の副作用で熱を出し、口内炎が喉まで出来て話せなくなり、体重も30キロ台まで落ちてしまった。
骨髄検査は15歳の私と弟は出来ず、家族は皆不一致。
もし私が検査出来る年齢だったら‥もし型が合っていたら‥
仕方ないと分かっていても‥今でも苦しい。
意識が危なくなりかけてる時、学校から駆けつけた私の名前を呼び「ごめん‥」と震える手で頭を撫でてくれた。
最後はモルヒネ投与で亡くなりました。
病室の引き出しにあったメモには「家族と離れたくない」「こわい」と小さく書いてあった。
ごめんね。
何も分かってあげられなかった。
何もしてあげられなかった。
私の名前を呼ぶ声が今でも忘れられない。
お父さん、会いたいよ。
一分でもいい、一瞬でも、もう一度会いたい。
別に泣けない
の時に隣のベッドで寝てる患者さんが飛び降り自殺した人で複雑骨折となんかで夜中にうなってて話せるようになってから仲良くなり話してて理由はともあれ、生きてて良かったね。って話にもなりお互い頑張ろうって励ましあったとき。
8年前、ガンで母を亡くしました。
肺から脊髄、脳へとガンが転移し手遅れでした。
モルヒネで痛みを軽くするだけの治療しか出来ず、その副作用も計り知れず、母はワタシに訴えました。
「早く殺してちょうだい…。」
これがワタシの聞いた母の最期の言葉です。
その言葉を聞いた時ワタシは絶句してしまい何も言えませんでした…。
何と返答してイイのか分からず、言葉が出なかったのです。
涙が溢れても来たけど、母に泣いている顔を見せちゃダメだ!と思い歯を食いしばって耐えていました。
それから2日後、母は苦しみの中亡くなりました。
しばらくして母の遺品を整理しているとワタシが産まれてきた時の育児日記が出てきました。
そこには育児への悩みも書いてあったけど、それ以上にワタシへの愛情あふれる言葉が沢山並んでいました。
自分がどれだけ母に愛され、大切に育ててもらってきたかを思い知り、声をあげてワンワンは泣いてしまいました…。
嬉しかった…!
本当に嬉しかった…!
正直、母には親孝行らしい事は1つもしてあげられませんでした。
今でも後悔しています。
お母さん、産まれ変わったらまたお母さんの子供として産まれて来てもイイ?
そうしたら今度は沢山親孝行させてね…。
産んでくれてありがとう。
涙とまらない
癌だったのに旦那には好きな人ができたって嘘ついて子供もおいて離婚…
きっと私にはできない…
あげ
私も後で書こう
なにかの冊子で読んだ。覚えてるところだけで申し訳ないけど。実話です
私は一年前に夫を亡くしました。
その日「いってきます」と言って冷たくなって帰ってきました。
私には年中さんの娘がおり最近「字を教えて」と言うので教えました。
幼稚園での七夕参観日、先生に呼ばれて渡された短冊を見て言葉をなくしました。
「いいこにするのでぱぱにあわせてください」
パパ…私もも会いたい。
止まらない。
育児に悩んでたのがちっぽけに思える。明日から頑張ろう!
あげてみる。
超泣いた
あげ
読むよアゲ
あげさせてm(._.)m
4年前の話しです。ずっと胃癌で入院していた、祖父の意識が急になくなり生死をさ迷いました。私の結婚式の1週間前の事だったので、結婚式とお葬式がもしかぶっちゃったらどうしょう?なんて最低な事を思ってしまいました。結婚式3日前に奇跡的に意識を取り戻したと聞いて、式場から(最終打ち合わせで式場に行っていた)急いで会いに行ったら、苦しいだろうに呼吸器を外して、『〇〇結婚おめでとうなぁ…』って笑顔で言ってくれました。意識を取り戻したので、当分は大丈夫だろうと言う事で、私たちは海外に新婚旅行に行きました。1週間後、空港から親に電話したら祖父は寝たきりだけど意識もしっかりしてると言うので 、次の日お土産を持ってお見舞いに行くつもりでした。ですが、次の日眠るように祖父は亡くなりました。まるで私と夫が無事に旅行から帰って来るのを待っていてくれたかのように…。
おじいちゃん、今までありがとね。私幸せになるからね。
泣けますね。
あたしも自分の話を。。
高校生の時に先生に譲ってもらった猫。お父さんとお母さんが大好きで、あたしはいじわるばっかりするから嫌われてた。あたしは25歳で結婚して、妊娠して6月に里帰りしてた。息子を見て『何、こいつ…』みたいな顔して、一切近寄らず。
9月にまた里帰りして4日目。息づかいがなんか変だなぁって次の日病院連れていったら『ガンです。余命も長くないだろう』と言われた。頭を鈍器で殴られたような衝撃だった…。ガンに良い病院を紹介してもらい、週明けに行こうと電話した。そしてその日の夜中…苦しそうに息をして、最後に『にゃん』と泣いて逝ってしまった…
息子と遊ばせたかった。みんなが『あんたが帰ってくるの待ってたんだよ』って言ってくれた。死んでから1年。一度も夢に出てくれなかった。それが昨日、来てくれた。目が覚めたら涙出た。来るの遅いよ!待ちくたびれたやん。でも来てくれてありがとう。
私の父は単身赴任で盆と正月にしか帰ってきません。私は父が40の時の子供で当時中2、思春期真っ只中の私には鬱陶しい存在でろくに口もききませんでした。そんなある日健康診断でひっかかって手術しないかんらしいから帰るわ~っと電話がありました。帰宅後家族で病院に行き母だけが呼ばれました。末期ガンで手のほどこしようがなく長くて今年いっぱいだと…。視線の先には検査を終えたお父さんが「めんどくさいなぁ」と笑いながら歩いてきました。でも前日の夜中痛みで寝れなく真っ暗な部屋でうつむきながら座ってるのを私は今でも覚えてるよ。入院して今週末は○○の(弟)の小学校の運動会あるから初めて行ってみようかなぁ~と話してたのに何でその日に死んじゃうの?入院して一週間なんて早すぎるよ。私何にもしてあげてない。くさい、うっとおしい、ダサいお父さんとか最低だよね。きっと罰があたったんだね。今でも握ったお父さんの手の大きさ覚えてる。私、今年母親になりました。お父さんの初孫だね。おじいちゃんになったんだよ。天国で見てくれてますか?
お父さん会いたいです
もう一度私の名前を呼んで下さい
あげ↑↑
あ
2年前、双子の女の子を亡くしました。
一卵性の双子だと分かった時、二卵性に比べてトラブルが多いと言われていました。
6ヶ月に入り、もう性別分かるかな?
と、楽しみに健診に行きました。
一人目は順調に大きくなっていました。
もう一人の姿を写した時、先生の手が止まりました。
エコーに写った我が子は、黒くて、私が見てもすぐ、亡くなっていると分かりました。
もう一人の子が、一生懸命亡くなってる子を蹴っていました。
私は嫌だと泣き叫ぶ事しか出来ず、その時、初めて主人の涙を見ました。
私のお腹を撫でながら、頑張れ…生きろ…と。
次の日、薬を使い、陣痛を起こしました。
とても辛い出産でした。
抱いてあげることも出来ないまま、天国に逝ってしまいました。
主人にそっくりな、可愛い女の子でした。
小さな棺に入ってる子供を見て、主人や親達も泣きました。
皆が泣いている中、上の子(1歳)が、一人一人の顔を見ながら、一生懸命笑っていました。
泣くのを我慢して…。
それから1年後、息子が生まれました。
障害がありますが、娘達の事を思うと、生まれて来てくれただけで良かったと思っています。
『お姉ちゃん、弟、パパ、ママで仲良く暮らしてるよ!
いつか、そっちに行った時、いっぱい抱っこさせてね。』
数年前の話…
待望の二人目を妊娠。上の子(当時5歳♂)も赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしていました。
毎日お腹をなでなでしてくれて、「お兄ちゃんだよ~」なんて話しかけてくれて、みんな本当に誕生を待ち望んでいました。
無事出産してから初対面…
最初は不思議なものを見る感じでキョトンとしてたけど、ずっと見ながらニヤニヤしてました。
でも…赤ちゃん心臓に異常があったんです。
生まれてから2週間後天国に行ってしまいました…
普段転んでも叱られても泣かないお兄ちゃん。
「死」というものがわかってるのか、わかっていないのか…
でも…もう会えなくなってしまう。抱っこできないんだよ。とパパが伝えたら、今まで見たこともないような剣幕で
「嫌だ!!嫌だ!!」
と泣いていました。
冷たくなった赤ちゃんをずーっと抱っこして離しませんでした。
生まれる前にママと選んで買ってきた服を赤ちゃんに着させてあげました。
最初で最後の兄妹二人の写真を撮ってあげました。
お兄ちゃん頑張って笑いました……
今でも大切に持っています。
お菓子も妹の分をとっておいてお供えしてくれます。
泣きながら書いたので文が変ですみません。
げ
子どもと旦那系はほんと泣ける(T_T)
普通の毎日も当たり前に思ってた。
1分1秒大事にしなきゃ。
毎日幸せをありがとう(T_T)