日航機墜落事故、美谷島さんの手記

匿名

匿名

14/08/13 00:07:05

息子は美谷島健くん、9歳。
健くんを一人、JAL123便に乗せあの悲劇の事故に…
お母さんの思いが茜雲という、遺族の手記に載っていましたので抜粋しました。
この事故、絶対に忘れてはいけません。

コメント

古トピの為、これ以上コメントできません

  • No.1 匿名

    14/08/13 00:07:31

    悪夢の、あの日から季節が一巡しました。小さな家庭の小さな幸せを一瞬のうちにこなごなにし、520人の尊い人命を奪っていった、昨年八月十二日。残された者にとって、癒えることのない悲しみが始まった日です。

    わが子の50分間の冒険の旅も、その日から永遠の一人旅になってしまいました。大好きなドラえもんのマンガとジュースをリュックにつめ、元気に出かけていきました。初めての一人旅、初めての飛行機でした。夢も希望もいっぱいで、幼児期から少年期に移り変わる時でした。
    学校から帰るとランドセルをしょったまま、『ママのいない家は寂しいよ。ママのにおいが大好きだもん』と小さな手を背中からからませてきました。
    その感触が、まだ肩に残っています。今、そっと手をまわしてみても、あの温かいえくぼのできる小さな手はありません。真夏の日が近づいて、街に出ると同じ年格好の子供たちの小さな手足が涙でぼやけてきます。

  • No.2 匿名

    14/08/13 00:08:20

    123便に乗ったのは、大阪の叔父のところから夏の高校野球に出場する憧れのPL学園を応援するためでした。そして夢に見た阪神電車に乗るところでした。
    羽田空港で、わが子をスチュワーデスに手渡した後、夕闇せまる夏空に消えて行く123便を18番ゲートで見送りました。初めて親元を離れる不安げな瞳を私に投げかけながらも、『ママ一人で帰れるの?』と、私を気づかってくれました。
    家に戻ったとたん、『123便がレーダーから消えた』ということをニュースか告げました。あの子と別れて一時間半後でした。『ジャンボが堕ちるはずがない』、そう信じていた私は、その瞬間から巨大技術の恐ろしさを知らされました。
    『ジャンボに乗るんだ』と、友人に得意げに話していたあの子の笑顔が、涙でゆがんで映りました。それから空白の、でも狂うような時が過ぎていきました。『会いたい!』ただそれだけを考えていました。

  • No.3 匿名

    14/08/13 00:09:31

    あの子と別れて、三日目の朝、急斜面を這うようにして夢中で山に登りました。バッグには、子供の着替えと山靴と雨ガッパを入れていきました。山頂は地獄絵図でした。炎上してまだ熱い機体を見て、生きているかもしれないという望みの最後の糸が切れました。くすぶっている機体に大好きだったジュースをかけてやりました。『熱かったろうね。どんなに心細かったろうね。連れて帰れなくてゴメンネ』と、遠くの山を見ながらつぶやいただけでした。
    遺体が見つかる前の晩、夢をみました。群馬の山に、花びらのように散ったあの子の身体が、そのまま夜空に昇り、星になっていく夢…。
    遺体が見つかりました。焼けた123便座席12Kと書いてある”チビッコVIP”のワッペンと、小さなイボのある右手だけ。顔も左手も、足もありませんでした。でも、『やっと会えた。ママはいつも健といつも一緒だよ。もう一人にはさせないよ。』と心の中で叫んでいました。

  • No.4 匿名

    14/08/13 00:10:13

    険しい山中で、必至に捜索にあたっていた方や、遺体の匂いのする中、蒸し風呂のような暑い体育館で検視して下さった方々の流れる汗に心から感謝しました。
    あの迷走の32分間、恐怖の機内で、この小さな右手は、一体、どこをつかんでいたのだろうと胸がしめつけられ、涙がところかまわずこぼれてきます。その気持ちは、いまも変わりません。
    『健ちゃん、ごめんね』と、あの子の机の上で何度も泣きました。親として、子どもが一生で一番恐ろしい思いをしている時、傍にいてやれなかったことをどうやって償っていったらいいのか、あの子の運命を決めてしまった自分を責めることしか、できませんでした。事故から二ヶ月ほどたって、四国から電話がありました。健の隣の席に座っていた娘さんのお母さんからでした。

  • No.6 匿名

    14/08/13 00:10:53

    『私の娘はやさしい子でした。子どもが大好きでした。きっと息子さんの手をしっかり握っていたと思いますよ。』と慰めてくださいました。
    葬儀のあと、部分遺体を見つけるために、何度、群馬を往復したことでしょう。あの子の一部なら、どんな形でも連れて帰りたい、と思いました。仮安置所に並べられた百幾つかの棺は、一日でも早く家族のもとに帰りたいと無言で訴えていました。何度か、上野村や藤岡、前橋に足を運ぶうちに、この惨事のためにどれほど多くの方が力を貸して下さっているのかがわかりました。
    十二月の合同火葬が行なわれるのも近いという厳冬の日、最後の確認のため、前橋に行きました。男の人の足の間から見つかったという遺体を見ました。塑像のような、首から上が、真っ黒な顔でした。亡き子の笑顔が浮かんできて、思わず『もう一度会いたい』と叫んでしまいました。事故後四ヶ月経って家族のもとにやっと帰れた、その変わり果てた、でも、顔のある遺体にさえ羨ましいと思う気持ちでした。
    わが子の、骨のない足袋のような形をした皮だけの足を三回目の火葬にしました。血液型と消去法で、何度も法医学の先生と検討し、百幾つもの棺の蓋をフラフラになりながら開けて、見つけたわが子でした。

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  • No.7 匿名

    14/08/13 00:11:43

    変わり果てた足と手の、わずかな部分。『でもこれで、天国で大好きだった野球ができるね』とつぶやきながら、PL学園のナインから贈られた小さな帽子と千羽鶴を棺の中片隅に入れてやりました。骨がないため、タバコの灰ぐらいにしかならなかった小さな息子を骨壺に入れたとき、こんなに人の命を粗末にしていいものだろうか、という怒りが初めてこみ上げてきました。

  • No.8 匿名

    14/08/13 00:12:41

    あれから一年。持っていた日記帳も、近鉄バファローズの帽子も、遺品らしいものは何も戻ってきませんでした。机の上は、あの日のまま。庭にころがっているボールも、小さなバットも、あの子の帰りを待っています。
    季節は変わるものの、衣料箱からセーターやタンクトップを取り出すのが怖い。あの子の匂いを求めながらも、弱虫な母親が描き出されてしまうのです。健が『世の中で一番大切なものは、命だよ』そう言っていたことが、思いだされます。最愛の者を失って生きることが、死ぬことよりもっと辛いことを知りました。幸せというものが、どんなに身近にあったかも改めて悟りました。
    お酒を飲んで帰ってきて、仏壇の前で泣いているのは主人でした。子どもに描いた夢が断ち切られた無念さは、言葉になりませんでした。

  • No.9 匿名

    14/08/13 00:13:28

    八月三日、上野村の皆さんのお力をいただき、一周忌の、慰霊祭が行なわれます。その時、あの慰霊塔に眠るわが子に、こんなことを、話したいと思っています。
    『九年間だけという約束で、ママのところに来たんだね。ママにいろいろなことを教え、残していってくれたね。楽しませてもくれたね。どうも、ありがとう。ママは君との良い想い出をしっかり胸にしまって、いつまでも大きくならない君を一生抱いていきます。
    もう怖くなんかないね。520人の人々と、上野村の天地に安らかにおねむり…。

    時がたち、この事故が少しずつ風化されることがあっても、補償と原因究明に、ある終止符がうたれる日が来ても、この悲しみが起きた日を境に、君と共に散った520人の尊い命は、空の安全への祈りの鐘を鳴らし続けることを、残された人々と見届けていきます』
    と…。

    美谷島邦子

  • No.15 匿名

    14/08/13 00:24:12

    >>14 もっと長い手記ですが、抜粋したので完コピではありません。

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