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高級個室サウナで火災、男女死亡
13/03/29 07:52:46
>>299 ■5.排日ボイコットで「シナの工業を発展させる」 日本人の商店や日本企業に対する直接的な不法行為もなされていた。 たとえば上海で1931年7月から12月末まで、排日諸団体員によって日本商品が捕獲・拘留された事件は35件、約28万7千ドルとの報告が、日本側から委員会に対してなされている。 委員会は、こうした排日ボイコットは、日本企業の事業を妨害して、中国の工業を発展させる狙いもあることを指摘している。 __________ このボイコットのもうひとつの特徴は、右(注:本になってる文なので、このような表現になります。)の例からもわかるように、単に日本の工業にダメージを与えるだけでなく、これまで日本から輸入していた製品の国内生産を刺激してシナの工業を発展させることにある。 その主な結果は、上海の日本人所有の工場を犠牲にしたシナの紡績工場の拡張である。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 排日ボイコットは、サービス業にも及んだ。 __________ ボイコットは商売だけにかぎられない。 シナ人は日本の船で旅行したり、日本の銀行を利用したりすることを禁じられ、業務上であれ私事であれ、いかなる資格においても日本人に仕えることがないよう警告される。 こうした命令を無視するものは各種の非難や脅迫を受ける。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 「日本人に仕えることがないよう」とは、日本企業に勤める中国人従業員に対する脅迫である。 続く
13/03/29 08:02:21
>>300 ■6.ボイコットは中国の伝統的手段 中国側は、こうしたボイコットが純粋に自然発生的なものだと主張したが、これに対しても委員会は明確に否定している。 __________ われわれ委員会は、シナのボイコットは民衆運動であると同時に組織されたものであり、またボイコットは強い国民的感情から生まれ、それに支持されているといえども、これを開始または終息させることのできる団体(例えば国民党)によって支配され命令されたもので、確かに脅迫に近い方法によって強行されたものだと結論する。 ボイコット組織には多くの団体があるが、主たる支配権力は国民党にある。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 報告書は、こうしたボイコットが中国で数世紀にわたって発展してきた伝統的手段であるが、国民党がそれを闘争手段として活用している、と指摘している。 __________ 数世紀にわたってシナ人は、商人、銀行家の団体や同業組合においてボイコットを常用してきた。 同業組合は近代的な情勢に合致するよう変形されてきたが、いまなおシナには多数存在し、共通の職業的利益を擁護するため組合員に対して絶大な力を振るっている。 数世紀の歴史をもつ組合活動で得られた訓練と姿勢は、現代のボイコット運動において、近年の熾烈なナショナリズムと結合した。 国民党はそのナショナリズムの組織的な表現だ。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 続く
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13/03/29 08:05:43
>>301 ■7.明治末から始まっていた日貨排斥 日貨排斥は、「日本の中国侵略」に対抗するための中国側の正当な手段である、と主張する向きもあろうが、実は「日本の中国侵略」のはるか以前から始まっている。 『シナ人とは何か 内田良平の「支那観」を読む』は、日貨排斥の始まりについて、次のように説明している。 明治時代には清国から多くの留学生が日本を訪れ、また孫文など革命家を日本が支援していたので、日中関係は良好だった。 __________ 雲行きがおかしくなったのは、辛亥革命後、清朝軍閥の生き残りである袁世凱と革命派が妥協して袁が新「中華民国」の大総統に就任した「南北妥協」(明治45年1月)の頃からである。 袁は革命派鎮圧のため清朝政府から全権を授けられながら模様眺めをした老獪な人物である。 彼は革命派の弱体を看て取り、革命により自国権益が回収されることを恐れるイギリスを後ろ盾に、革命派と日本の離間を図り、日本に満洲侵略の意図ありとの風説を流した。 動乱の責任を日本になすりつけ、漢民族大衆の「中華」意識から発する排外主義に火をつけた袁の術策は当たり、大衆は日貨排斥に走った。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 袁世凱は革命派を追い落とすために、その後ろ盾になっている日本に対してボイコットを仕掛けたのである。 西洋の侵略からアジアを守るために、一刻も早く中国に近代化してほしいと孫文ら革命派を支援してきた日本としては、思いも寄らぬ仕打ちだった。 「南北妥協」の明治45年と言えば1912年。 「日本の中国侵略」の端緒と言われる満洲事変が始まったのが1931年(昭和6年)、さらにその淵源と言われる対華21ヶ条要求でも1915年(大正4年)である。 続く
13/03/29 08:14:40
>>294 「日貨排斥」の歴史は繰り返す>>296>>297>>298>>299>>300>>301>>302>>303
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ママスタコミュニティはみんなで利用する共有の掲示板型コミュニティです。みんなが気持ちよく利用できる場にするためにご利用前には利用ルール・禁止事項をご確認いただき、投稿時には以下内容をもう一度ご確認ください。
上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。
No.300 続き
13/03/29 07:52:46
>>299
■5.排日ボイコットで「シナの工業を発展させる」
日本人の商店や日本企業に対する直接的な不法行為もなされていた。
たとえば上海で1931年7月から12月末まで、排日諸団体員によって日本商品が捕獲・拘留された事件は35件、約28万7千ドルとの報告が、日本側から委員会に対してなされている。
委員会は、こうした排日ボイコットは、日本企業の事業を妨害して、中国の工業を発展させる狙いもあることを指摘している。
__________
このボイコットのもうひとつの特徴は、右(注:本になってる文なので、このような表現になります。)の例からもわかるように、単に日本の工業にダメージを与えるだけでなく、これまで日本から輸入していた製品の国内生産を刺激してシナの工業を発展させることにある。
その主な結果は、上海の日本人所有の工場を犠牲にしたシナの紡績工場の拡張である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
排日ボイコットは、サービス業にも及んだ。
__________
ボイコットは商売だけにかぎられない。
シナ人は日本の船で旅行したり、日本の銀行を利用したりすることを禁じられ、業務上であれ私事であれ、いかなる資格においても日本人に仕えることがないよう警告される。
こうした命令を無視するものは各種の非難や脅迫を受ける。
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「日本人に仕えることがないよう」とは、日本企業に勤める中国人従業員に対する脅迫である。
続く
No.301 続き
13/03/29 08:02:21
>>300
■6.ボイコットは中国の伝統的手段
中国側は、こうしたボイコットが純粋に自然発生的なものだと主張したが、これに対しても委員会は明確に否定している。
__________
われわれ委員会は、シナのボイコットは民衆運動であると同時に組織されたものであり、またボイコットは強い国民的感情から生まれ、それに支持されているといえども、これを開始または終息させることのできる団体(例えば国民党)によって支配され命令されたもので、確かに脅迫に近い方法によって強行されたものだと結論する。
ボイコット組織には多くの団体があるが、主たる支配権力は国民党にある。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
報告書は、こうしたボイコットが中国で数世紀にわたって発展してきた伝統的手段であるが、国民党がそれを闘争手段として活用している、と指摘している。
__________
数世紀にわたってシナ人は、商人、銀行家の団体や同業組合においてボイコットを常用してきた。
同業組合は近代的な情勢に合致するよう変形されてきたが、いまなおシナには多数存在し、共通の職業的利益を擁護するため組合員に対して絶大な力を振るっている。
数世紀の歴史をもつ組合活動で得られた訓練と姿勢は、現代のボイコット運動において、近年の熾烈なナショナリズムと結合した。
国民党はそのナショナリズムの組織的な表現だ。
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続く
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No.302 続き
13/03/29 08:05:43
>>301
■7.明治末から始まっていた日貨排斥
日貨排斥は、「日本の中国侵略」に対抗するための中国側の正当な手段である、と主張する向きもあろうが、実は「日本の中国侵略」のはるか以前から始まっている。
『シナ人とは何か 内田良平の「支那観」を読む』は、日貨排斥の始まりについて、次のように説明している。
明治時代には清国から多くの留学生が日本を訪れ、また孫文など革命家を日本が支援していたので、日中関係は良好だった。
__________
雲行きがおかしくなったのは、辛亥革命後、清朝軍閥の生き残りである袁世凱と革命派が妥協して袁が新「中華民国」の大総統に就任した「南北妥協」(明治45年1月)の頃からである。
袁は革命派鎮圧のため清朝政府から全権を授けられながら模様眺めをした老獪な人物である。
彼は革命派の弱体を看て取り、革命により自国権益が回収されることを恐れるイギリスを後ろ盾に、革命派と日本の離間を図り、日本に満洲侵略の意図ありとの風説を流した。
動乱の責任を日本になすりつけ、漢民族大衆の「中華」意識から発する排外主義に火をつけた袁の術策は当たり、大衆は日貨排斥に走った。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
袁世凱は革命派を追い落とすために、その後ろ盾になっている日本に対してボイコットを仕掛けたのである。
西洋の侵略からアジアを守るために、一刻も早く中国に近代化してほしいと孫文ら革命派を支援してきた日本としては、思いも寄らぬ仕打ちだった。
「南北妥協」の明治45年と言えば1912年。
「日本の中国侵略」の端緒と言われる満洲事変が始まったのが1931年(昭和6年)、さらにその淵源と言われる対華21ヶ条要求でも1915年(大正4年)である。
続く
No.304 まとめておきます。
13/03/29 08:14:40
>>294
「日貨排斥」の歴史は繰り返す>>296>>297>>298>>299>>300>>301>>302>>303