少しの努力が大きな成果を生む
トピックタイトル
義母からの手作り料理、正直つらいです…
本文
義母が毎週のように「作りすぎちゃったから」と、大量のお惣菜や煮物を持ってきてくれます。気持ちはありがたいのですが、正直わが家の味付けとは違うし、好みではないものも多いです。せっかく作ってくれたものを捨てるわけにもいかず、頑張って食べています。
断っても「せっかく作ったのに」と悲しそうな顔をされるので、どうしたらいいか悩んでいます。同じような経験をされた方、どうやって対処していますか?
「ママスタ 義母 投稿作って」って入れたら作ってくれた
こんな風にみんな作ってるのかな?
古トピの為、これ以上コメントできません
1件~16件 ( 全16件)
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No.1 言わぬが花
25/09/11 15:07:21
すごいね!全然違和感ない。ここまで作れるものなんだ。
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1件
No.2 主 少しの努力が大きな成果を生む
25/09/11 15:12:46
>>1
びっくりしたよ
何個か例を出してきたけど全て違和感ない感じだよ
で、ありがちなネタだった(笑)
判断が難しい時代になったものだね
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No.3 継続は力なり
25/09/11 15:14:29
すんごい時代だねぇ
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No.4 本当に大切なのは、今ここにあるもの
25/09/11 15:14:36
義祖母世代な感じ
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No.5 馬鹿は死ななきゃ治らない
25/09/11 15:35:41
なんだそうだったのか
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1件
No.6 自分を信じろ、でもGPSも使え
25/09/11 15:36:37
>>5
ね
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No.7 自分を信じろ、でもGPSも使え
25/09/11 15:37:34
もっと他にも作ってみて
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1件
No.8 主 少しの努力が大きな成果を生む
25/09/11 15:48:55
>>7
「ママ友」って入れた場合
【トピ立て】
ママ友関係って、どうしてこんなに気を使うんだろう...
【本文】
幼稚園のママ友グループにいるんだけど、付き合いに疲れてきちゃった。
ランチ会とかイベントとか、誘われれば断りにくいし、SNSも常にチェックしないといけない気がして。
みんなでいるときは楽しいんだけど、終わった後のどっとした疲れがすごくて。
正直、ママ友付き合いって本当に必要?
無理して付き合うくらいなら、子どものためにもならない気がするんだけど...。
同じように感じてる人、いますか?
…簡単だね コピーするだけ
それもタダ(笑)
信じられなくなりそうだ(苦笑)
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No.9 言わぬが花(でもたまには言った方が花)
25/09/11 16:25:09
この手のトピはみんな釣りだと思ってた
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1件
No.10 馬鹿は死ななきゃ治らない
25/09/11 16:31:54
林真理子風エッセイをAIに作ってもらった
義実家から、現金のお祝いをいただいたことは一度もない。ゼロである。
その代わりにというか、両家で集まるたびに必ず義両親が食事代を出す。いや、正確に言うと「ありがたくも出してくださる」。しかも毎回、きまってこう言うのだ。
「遠くからわざわざありがとうございます。◯◯家としてお祝いはこちらでさせていただきます」
──どうです、この堂々たる宣言。
けれど行き先は毎回同じ。義両親のお知り合いの中華料理店である。アットホームでリーズナブル、大人6人食べてもお会計はだいたい1万5千円。私の心の電卓は、いつもチーンと鳴る。「はい、今日のお祝いは1万5千円なり」と。しかも子どもたちはまだ3歳と1歳、チャーハンのひと口も食べない。これで「◯◯家としての晴れやかなお祝い」と言われても、どうにも箸が進まない。
一方の私の実家ときたら、対照的である。孫の節目には毎回5万円以上を包み、さらにおもちゃや洋服まで抱えてやって来る。まるでサンタクロースが年中無休で働いているかのようだ。するとどうしても比べてしまう。「食事代1万5千円 VS 現金5万円+プレゼント」。結果は言うまでもない。
もちろん私や両親も「今日は私たちが出しますよ」と言ってみる。だがそのたびに義両親はきっぱりと断る。「いえいえ、◯◯家として払うのが当然ですから」──出ました、“◯◯家”。このフレーズがとにかく大好きらしい。回鍋肉の隣で繰り返される“家”の連呼に、私は心の中で「この人たちはいったい何の家元なのだろう」とつぶやくのである。
考えてみれば、義両親にとって「食事代を出すこと」が最大の見せ場なのかもしれない。舞台でいうならカーテンコール、歌舞伎でいうなら見得を切る場面。「よっ!◯◯家!」と掛け声をかけたくなるほど誇らしげだ。けれど、その金額は毎回1万5千円。安くておいしいのはありがたいけれど、「これがお祝い…?」と首をかしげながら、私は今日も中華スープをすすっている。
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No.11 主 少しの努力が大きな成果を生む
25/09/11 16:37:44
>>9
まー釣りだろうなとはいつも思う
主コナーズだったり返事が曖昧だったりするからな
そこで判断かな?
なんとなく今回やってみたけど…たったこの言葉だけでありがちな作り話をするとは
驚愕だね
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No.12 馬鹿は死ななきゃ治らない
25/09/11 16:39:22
AIで林真理子風エッセイにした
義母からの“愛情爆弾”を受け止める日々
――林真理子風エッセイ
義母という存在は、宇宙に浮かぶ巨大惑星のようなものです。重力が強すぎて、こちらの小さな抵抗など意味をなしません。私の義母もそのタイプで、毎週のように「作りすぎちゃったから」と大量のお惣菜を持ってきてくださいます。
ありがたいんですよ、もちろん。愛情を注いでくださっているのは分かっています。けれども、わが家の味付けとはどうにも合わない。なぜ煮物がこんなに黒光りしているのか、なぜひじきが砂糖菓子のように甘いのか。私は毎週、「義母味」という新しいジャンルの学問に挑んでいる気分です。
しかも、その量たるや。タッパーのフタが閉まる瞬間、義母はなぜか満足げに微笑みます。そのとき私の冷蔵庫は、またひとつ“義母煮物保管庫”と化すのです。子どもたちも最初は「わあ!」と喜びますが、二日目には「ママ、またこれ?」と小声で抗議。私も「まあまあ、食べてみなさい」と言いながら、内心では同じことを思っているのです。
断ろうと試みたこともあります。しかし義母は、宝塚の大女優ばりに目を伏せ、唇を震わせながら一言。
「せっかく作ったのに…」
――この台詞に勝てる嫁は、果たして世に存在するのでしょうか。私は即座に敗北し、両手でタッパーを受け取るしかありません。
そうして、我が家の冷蔵庫は今日も義母料理でパンパン。私はもはや「嫁修行」ではなく「義母料理トライアスロン」に挑んでいるのです。
さて、この話のオチ。先日、あまりにも冷蔵庫がいっぱいで、子どもがアイスを探して泣き出しました。仕方なく私は、冷凍室の奥に追いやられていた義母の“黒光り煮物”をひとつ取り出し、「これもアイスみたいに冷たいわよ」と出してみたのです。子どもは渋い顔をしながらも一口。「……うん、やっぱりまずい」ときっぱり。
――ああ、やっぱり血は争えない。私と子ども、同じ味覚のDNAに、そっと安堵したのでした。
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No.13 馬鹿は死ななきゃ治らない
25/09/11 16:45:43
義母の煮物について
――五木寛之風エッセイ
人にはそれぞれ、生まれ育った土地の味がある。
それは、郷愁というよりも、もっと根深い「生き方の記憶」に近いものかもしれない。
義母が毎週のように持ってくる大鍋の煮物やお惣菜を前にすると、私はいつも立ち止まってしまう。
味は、正直に言えば、私の好みとは違う。砂糖が強すぎる。煮汁が濃すぎる。ひと口食べると、舌に残る甘さがいつまでも去っていかない。だが、義母はその味を信じている。長い年月をかけて育ててきた“自分の味”を。
私の家庭に持ち込まれたその味は、少し異物のように浮いてしまう。子どもたちは「またこれ?」と顔をしかめる。私も同じ思いを抱きながら、それでも箸をつけざるを得ない。捨てることはできない。そこには義母の気持ちが、いや、生きてきた時間そのものが詰まっているからだ。
断ろうとしたこともある。「お気持ちだけで十分です」と言った私に、義母は静かに答えた。
「せっかく作ったのに」
――その声は、かすかに震えていた。あのとき私は、何も言い返せなかった。
人は年をとると、自分の存在を誰かに示したくなる。料理はその手段のひとつなのだろう。義母にとって鍋いっぱいの煮物は、「まだ私は誰かの役に立てる」という証明にほかならない。
だから私は今日もタッパーを受け取る。冷蔵庫は狭くなるし、味覚の冒険も続く。だが、それでいいのかもしれない。義母の味に合わせることは、彼女の人生に敬意を払うことだからだ。
ある夜、ふと思い立って義母の煮物に自分の好みのスパイスを加えてみた。クミンや唐辛子。すると、意外にも新しい味わいが立ち上がった。翌日、子どもたちが「これなら食べられる」と言ったとき、私は少しだけ笑った。
――義母の時間と、私の時間。その二つが、同じ鍋の中でゆっくりと溶け合っていく。そんな気がした。
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No.14 馬鹿は死ななきゃ治らない
25/09/11 16:52:38
義母の煮物
――風
義母は、毎週のように鍋をかかえてやって来る。
「作りすぎてしまったのよ」
そう言いながら、まだ湯気をのこした惣菜を卓の上に置く。
ありがたいことだ、と私は思う。
けれども、口に含むと、わが家の味とはどこか遠い。
醤油の濃さが舌にしみ、砂糖の甘さが骨に残る。
私の舌は、義母の年月を映す鏡であるかのように、昭和の匂いを思い出す。
冷蔵庫のなかは、義母の煮物で満ちていく。
レンコン、こんにゃく、人参。
同じ具材が並びながら、少しずつ違う色をしている。
私の子どもたちは初めこそ面白がり、二日目には箸を止める。
「またこれ?」とつぶやく声は、秋の虫のようにかすかで寂しい。
断ろうとしたこともある。
「せっかく作ったのに」
義母のその言葉は、胸の奥に冷たい石を落とす。
私は微笑みをつくり、再びタッパーを受け取る。
ある夜、煮物を温め直しているとき、ふと気づいた。
この重さ、この味は、義母の孤独の形なのかもしれない。
ひとりの台所で、誰かのために手を動かす時間。
その手のぬくもりが、煮物の汁にしみこんでいるのだろう。
私は箸をとり、少し冷めたレンコンを口に入れた。
やはり甘すぎる。けれども、その甘さが、どこか胸を締めつけた。
――義母の煮物は、わが家の味ではない。
けれども、義母の人生の味であった。
川端康成はいいねえ
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No.15 恥をかいても前に進むことが大事
25/09/11 16:57:06
どこかのバカのトピより読みやすくていいね!
賢いなあ
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No.16 二度あることは三度ある
25/09/11 17:59:51
わかってはいるけど、こちらも暇を潰したいからなんて答えるかな?とついついコメントを残してしまう時があるんだよね。笑
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