• No.13 馬鹿は死ななきゃ治らない

    25/09/11 16:45:43

    義母の煮物について

    ――五木寛之風エッセイ

    人にはそれぞれ、生まれ育った土地の味がある。
    それは、郷愁というよりも、もっと根深い「生き方の記憶」に近いものかもしれない。

    義母が毎週のように持ってくる大鍋の煮物やお惣菜を前にすると、私はいつも立ち止まってしまう。
    味は、正直に言えば、私の好みとは違う。砂糖が強すぎる。煮汁が濃すぎる。ひと口食べると、舌に残る甘さがいつまでも去っていかない。だが、義母はその味を信じている。長い年月をかけて育ててきた“自分の味”を。

    私の家庭に持ち込まれたその味は、少し異物のように浮いてしまう。子どもたちは「またこれ?」と顔をしかめる。私も同じ思いを抱きながら、それでも箸をつけざるを得ない。捨てることはできない。そこには義母の気持ちが、いや、生きてきた時間そのものが詰まっているからだ。

    断ろうとしたこともある。「お気持ちだけで十分です」と言った私に、義母は静かに答えた。
    「せっかく作ったのに」
    ――その声は、かすかに震えていた。あのとき私は、何も言い返せなかった。

    人は年をとると、自分の存在を誰かに示したくなる。料理はその手段のひとつなのだろう。義母にとって鍋いっぱいの煮物は、「まだ私は誰かの役に立てる」という証明にほかならない。

    だから私は今日もタッパーを受け取る。冷蔵庫は狭くなるし、味覚の冒険も続く。だが、それでいいのかもしれない。義母の味に合わせることは、彼女の人生に敬意を払うことだからだ。

    ある夜、ふと思い立って義母の煮物に自分の好みのスパイスを加えてみた。クミンや唐辛子。すると、意外にも新しい味わいが立ち上がった。翌日、子どもたちが「これなら食べられる」と言ったとき、私は少しだけ笑った。

    ――義母の時間と、私の時間。その二つが、同じ鍋の中でゆっくりと溶け合っていく。そんな気がした。

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