雅子さまの人生、総理大臣または都知事だったかな?

匿名

シキンボウ

21/09/27 23:55:38

1979年(昭和54年)より、
ボストン市郊外のベルモント市にあるマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属
High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞
在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった
この期間、高校(12年生)から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた『エンサイクロペディア・オブ・ジャパン(英語版)』(英語版日本百科事典)の編集を手伝う

1981年(昭和56年)、ハーバード大学経済学部に入学。
国際経済学専攻。ハーバード大学のほかイェール大学、プリンストン大学など複数のアイビー・リーグ校に合格したが、「日本で就職するには名前の通った大学がいい」と考え進学

1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業
成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞
1985年(昭和60年)の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。
卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している

1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学
100名中3名の合格であった

駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格
外務省入省が決まる
合格者は28名でうち女性は3名であった。
渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。

1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。
「経済局国際機関第二課」に配属
この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。

1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学(在イギリス日本国大使館付)
その頃より、皇太子妃候補と報道され、大学にまで日本からのマスコミが押しかける騒ぎとなっており、他の寮生に迷惑になるからと、ホリウェル・マナー寮にはほとんど滞在せずフランス・パリの両親宅(OECD大使邸)にいた。

同年7月9日から11日に第16回先進国首脳会議(G7ヒューストンサミット)の半導体の市場開放問題担当海部俊樹の通訳の一人として小和田恆とともに父子で米国に出張。

もったいない人材だよ。
今頃、女性総理大臣または都知事だったよ。
適応障害とか悲しすぎる人生。

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