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中学生だけで塾帰りの21時に外食はアリ?
13/12/28 15:49:47
ABC級戦犯(正確にはABC項目戦犯と言う)というのは、A級戦犯の 『A 』はイロハの『イ』を英語にしただけだし、 国際軍事裁判条例第六条で制定されているもので、 A項:「平和に対する罪」 B項:「通例の戦争犯罪」 C項:「人道に対する罪」 と分けられているだけで、罪の軽重を分類したものではないし、特に「平和に対する罪」は、この時初めて出てきた言葉で、それ以前は、そういう概念すらありませんでした。 “戦闘”に参加しなかった者を軍事裁判で裁く目的で、後になってから設けられたもので、要するに国際軍事裁判条例は、1945年に制定されたもので立派な『事後法』なんです。 BC級と違い、A級には明確な国際法違反事項が無く、明確には何の戦争犯罪も犯していません。戦勝国側が戦闘に敗れた日本を意のままに改造する目的で、邪魔だった「当時の日本の指導者」をデタラメなやり方で葬ったのです。 パール判事はこの裁判に不快感を示してましたが、この裁判を主催したマッカーサーも後日、東京裁判は誤りであったと述懐しています。
13/12/28 15:56:15
>>632 10人ぐらいの裁判官のうち本物の裁判官はパール判事だけだったんだよね。だからパール判事だけまともな判決を下した。 そもそも先勝国が敗戦国を裁くのはありえない事。
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古トピの為、これ以上コメントできません
13/12/28 16:02:05
>>634そうだね。 以下コピペ 《ラダビノード・パール(1886~1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。 東京裁判(1946~1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。 パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。 日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》
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No.632 コピペ
13/12/28 15:49:47
ABC級戦犯(正確にはABC項目戦犯と言う)というのは、A級戦犯の 『A 』はイロハの『イ』を英語にしただけだし、 国際軍事裁判条例第六条で制定されているもので、
A項:「平和に対する罪」
B項:「通例の戦争犯罪」
C項:「人道に対する罪」
と分けられているだけで、罪の軽重を分類したものではないし、特に「平和に対する罪」は、この時初めて出てきた言葉で、それ以前は、そういう概念すらありませんでした。
“戦闘”に参加しなかった者を軍事裁判で裁く目的で、後になってから設けられたもので、要するに国際軍事裁判条例は、1945年に制定されたもので立派な『事後法』なんです。
BC級と違い、A級には明確な国際法違反事項が無く、明確には何の戦争犯罪も犯していません。戦勝国側が戦闘に敗れた日本を意のままに改造する目的で、邪魔だった「当時の日本の指導者」をデタラメなやり方で葬ったのです。
パール判事はこの裁判に不快感を示してましたが、この裁判を主催したマッカーサーも後日、東京裁判は誤りであったと述懐しています。
No.634 匿名
13/12/28 15:56:15
>>632
10人ぐらいの裁判官のうち本物の裁判官はパール判事だけだったんだよね。だからパール判事だけまともな判決を下した。
そもそも先勝国が敗戦国を裁くのはありえない事。
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古トピの為、これ以上コメントできません
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No.635 匿名
13/12/28 16:02:05
>>634そうだね。
以下コピペ
《ラダビノード・パール(1886~1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。
東京裁判(1946~1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。
パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。
日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。
このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》