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23/04/02 19:05:36
牧野富太郎【まきの とみたろう】 1862年(文久2年)5月 土佐国佐川村(現・高知県高岡郡佐川町) 商家と酒造業を営む家に生まれる 3歳で父・佐平、5歳で母・久壽、6歳で祖父・小左衛門を亡くす 「成太郎」⇒「富太郎」に改名 11歳で名教館で伊藤蘭林に学び、漢学や西洋の地理天文物理を学ぶ 名教館は学制改革で佐川小学校になり通うものの授業に物足りなくなり2年で自主退学(15歳の時に臨時教員でそこに2年務めた) 好きな植物採取に明け暮れ酒屋は祖母や番頭に任せて気ままな生活 1879年(明治12年)高知市の弘田正郎の五松学舎に入塾 19歳のときに第2回内国勧業博覧会の見物と書籍と顕微鏡を買うために番頭と会計係と一緒に上京。博物局の田中芳男と小野職愨を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した 明治17年(1884年)22歳で再び上京 帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉を訪ね同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する 25歳で同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊 ロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送る 祖母・浪子が死去 26歳で実費で「日本植物志図篇」を刊行。これで印刷技術を学び、絵は自分で描いていた その頃佐川と東京を往復して研究費を使い過ぎて実家の酒屋の経営が傾いていた 1889年(明治22年)27歳で新種の植物を発見・ヤマトグサと名付け、 1890年に小岩でムジナモを発見し世界的に名の知られるようになる 小澤寿衛子と結婚(寿衛子は陸軍営繕部の小澤一政の娘で菓子屋の娘ではなかったので博覧会で牧野と会っていない) 根岸に家を構える 矢田部・松村任三らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった 1891年(明治24年)実家が経営破綻。家財整理のため高知に戻り植物研究や西洋音楽会を開いて過ごしていたが、知人らの協力で東京に戻り駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続ける 31歳のときに松村に呼び戻され助手として東京帝国大学理科大学に戻るが佐川の実家が没落し、助手の給料だけの生活では研究には足りないので借金をしてしまい貧困生活を過ごす それでも植物採取を各地でしながら研究を続け多数の標本や本を出版 1900年(明治33年)日本植物志図篇の代わりに「大日本植物志」を刊行されるが4巻で松村に妨害され中断 1911年(明治44年)東京植物同好会設立で会長となる 1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで東京帝国大学理科大学講師を勤める 1926年(大正15年)津村順天堂(現・ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊し現在も刊行されている。東京府豊島郡大泉町(現・練馬区東大泉)に新居を構える 1927年(昭和2年)65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける 発見した新種の笹に寿衛子の名をとって「スエコザサ」と名付ける 翌年 寿衛子死去 享年55歳 1937年(昭和12年)朝日文化賞受賞 1940年(昭和15年)東京帝国大学を退職後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。改訂を重ねながら現在も販売されている 1950年(昭和25年)日本学士院会員になる 翌年 自宅にある植物標本約50万点の整理のため「牧野博士標本保存委員会」が組織し翌年にかけて標本整理が行われた 同年設立された第1回文化功労者の対象者となる 1953年(昭和28年)91歳で東京都名誉都民になる(第1号である) 1956年(昭和31年)郷里の高知県佐川町の名誉町民になる 1957年(昭和32年)死去 享年96歳 従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された 墓所は東京都台東区谷中の天王寺 郷里の佐川町にも分骨されている 1958年(昭和33年)高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園 富太郎さんには13人の子供がいたそうですが、 すぐに死別したのが6人いたので 成長した子供は7人(男3人女4人)だそうです
23/05/28 17:30:19
田邊教授(要潤)のモデルは 矢田部良吉 >>1 にあるように史実では矢田部教授は小学校中退の牧野富太郎さんを東大の植物学教室に受け入れますが、富太郎さんが植物学の雑誌を出した途端に教室の出入り禁止にさせてます やはり植物学者として富太郎さんを脅威に感じたのでしょうね だけど富太郎さんが高知に帰省してる間に矢田部教授はクビになりました 原因はライバルの帝国大学理科大学学長の菊池大麓の権力争いに負けたのかも? 矢田部教授は西洋文化が大好きで鹿鳴館でダンスが趣味で授業はすべて英語だったのは田邊教授にも繋げてますね
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No.1 主 ソラ・ハレワタール
23/04/02 19:05:36
牧野富太郎【まきの とみたろう】
1862年(文久2年)5月
土佐国佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)
商家と酒造業を営む家に生まれる
3歳で父・佐平、5歳で母・久壽、6歳で祖父・小左衛門を亡くす
「成太郎」⇒「富太郎」に改名
11歳で名教館で伊藤蘭林に学び、漢学や西洋の地理天文物理を学ぶ
名教館は学制改革で佐川小学校になり通うものの授業に物足りなくなり2年で自主退学(15歳の時に臨時教員でそこに2年務めた)
好きな植物採取に明け暮れ酒屋は祖母や番頭に任せて気ままな生活
1879年(明治12年)高知市の弘田正郎の五松学舎に入塾
19歳のときに第2回内国勧業博覧会の見物と書籍と顕微鏡を買うために番頭と会計係と一緒に上京。博物局の田中芳男と小野職愨を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した
明治17年(1884年)22歳で再び上京
帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉を訪ね同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する
25歳で同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊
ロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送る
祖母・浪子が死去
26歳で実費で「日本植物志図篇」を刊行。これで印刷技術を学び、絵は自分で描いていた
その頃佐川と東京を往復して研究費を使い過ぎて実家の酒屋の経営が傾いていた
1889年(明治22年)27歳で新種の植物を発見・ヤマトグサと名付け、
1890年に小岩でムジナモを発見し世界的に名の知られるようになる
小澤寿衛子と結婚(寿衛子は陸軍営繕部の小澤一政の娘で菓子屋の娘ではなかったので博覧会で牧野と会っていない)
根岸に家を構える
矢田部・松村任三らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった
1891年(明治24年)実家が経営破綻。家財整理のため高知に戻り植物研究や西洋音楽会を開いて過ごしていたが、知人らの協力で東京に戻り駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続ける
31歳のときに松村に呼び戻され助手として東京帝国大学理科大学に戻るが佐川の実家が没落し、助手の給料だけの生活では研究には足りないので借金をしてしまい貧困生活を過ごす
それでも植物採取を各地でしながら研究を続け多数の標本や本を出版
1900年(明治33年)日本植物志図篇の代わりに「大日本植物志」を刊行されるが4巻で松村に妨害され中断
1911年(明治44年)東京植物同好会設立で会長となる
1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで東京帝国大学理科大学講師を勤める
1926年(大正15年)津村順天堂(現・ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊し現在も刊行されている。東京府豊島郡大泉町(現・練馬区東大泉)に新居を構える
1927年(昭和2年)65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける
発見した新種の笹に寿衛子の名をとって「スエコザサ」と名付ける
翌年 寿衛子死去 享年55歳
1937年(昭和12年)朝日文化賞受賞
1940年(昭和15年)東京帝国大学を退職後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。改訂を重ねながら現在も販売されている
1950年(昭和25年)日本学士院会員になる
翌年 自宅にある植物標本約50万点の整理のため「牧野博士標本保存委員会」が組織し翌年にかけて標本整理が行われた
同年設立された第1回文化功労者の対象者となる
1953年(昭和28年)91歳で東京都名誉都民になる(第1号である)
1956年(昭和31年)郷里の高知県佐川町の名誉町民になる
1957年(昭和32年)死去 享年96歳
従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された
墓所は東京都台東区谷中の天王寺
郷里の佐川町にも分骨されている
1958年(昭和33年)高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園
富太郎さんには13人の子供がいたそうですが、
すぐに死別したのが6人いたので
成長した子供は7人(男3人女4人)だそうです
No.55 主 ソラ・ハレワタール
23/05/28 17:30:19
田邊教授(要潤)のモデルは 矢田部良吉
>>1 にあるように史実では矢田部教授は小学校中退の牧野富太郎さんを東大の植物学教室に受け入れますが、富太郎さんが植物学の雑誌を出した途端に教室の出入り禁止にさせてます
やはり植物学者として富太郎さんを脅威に感じたのでしょうね
だけど富太郎さんが高知に帰省してる間に矢田部教授はクビになりました
原因はライバルの帝国大学理科大学学長の菊池大麓の権力争いに負けたのかも?
矢田部教授は西洋文化が大好きで鹿鳴館でダンスが趣味で授業はすべて英語だったのは田邊教授にも繋げてますね
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