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家族以外でクリスマスパーティーはある?
23/09/14 08:47:34
ネタバレサイト見てきた。ここの貼り付けは見る気しないけど、あちらはしつこくないし見やすい。あと2週間ちょいしかないのが残念すぎる。絶対ロスになる。
23/09/14 09:20:01
>>6185 資産家の青年・永守徹が万太郎を支援 モデルは京大法学部学生の池長孟 牧野富太郎の標本を買い取り借金解消【連載記事復刻】篤志家は大学生だった (1) 朝ドラ「らんまん」で早川逸馬(宮野真守)は、神戸の資産家だという永守徹(中川大志)を万太郎に引き合わせました。永守は万太郎の植物標本の保管と植物図鑑発刊のための費用を支援したいと告げます。京都帝国大学を卒業したばかりだという青年の思いがけない申し出に、万太郎と寿恵子(浜辺美波)の2人は当惑もします。 実はこれも史実に沿ったエピソードです。資産家の青年は、当時は京都大学の学生だった池長孟(いけなが・はじめ)だと考えられます。 「らんまん」をもっと深く、もっと楽しく! 牧野富太郎博士の特設サイトはこちら! 大正5(1916)年のことでした。牧野富太郎の経済的な困窮は極まっていました。膨大な借金を抱えていたのです。借金を返済するには植物標本を売却するしかない。そこまで追い詰められており、そのことが朝日新聞の記事になったのです。 記事が掲載された直後、池長は牧野の標本を全て買い取って借金を解消しようと申し出をしたのです。牧野は青年の熱意に歓喜しました。 史実はどうだったのか。過去の連載記事を復刻しました。 『淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く』(36)篤志家は大学生だった 牧野富太郎の経済的困窮は、京都大学法学部に通う学生によって救われた。 名は池長孟(はじめ)といい、当時54歳だった牧野より30歳ほども若い25歳の青年である。 1891(明治24)年に神戸市兵庫区に生まれた池長は、資産家であった池長家の養子に迎えられ、養父の莫大(ばくだい)な財産を若くして引き継いでいた。 このころ、後に立憲政友会総裁となる久原房之助(当時、日立製作所などを設立していた実業家)も牧野を援助しようと手を上げていた。それを断り、大学生からの申し出の方を受けた理由を牧野は特に書き残してはいない。財界の大物からの支援により、何かのしがらみが生まれることなどを懸念したのだろうか。 □ 牧野の貴重な標本が海外に流出するかもしれない。池長は新聞記事を読んで心を動かされ、新聞社に駆けつけた。そして標本を買い取ることを申し出た。そればかりでなく、買い取った標本はそのまま牧野に寄贈しようという。若者の純粋な篤志だった。 電光石火のごとく、話は進む。 牧野窮状の記事が朝日新聞に掲載されたのは1916(大正5)年12月18日。直後に池長の申し出があって、牧野はすぐに妻と東京から神戸に向かい、同24日、池長に面会する。 「牧野富太郎と神戸」の著書のある元兵庫県生物学会会長、白岩卓巳さんによると、自ら牧野家に出向くことにしていた池長は急な来神に驚いたらしい。 出典:高知新聞
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ママスタコミュニティはみんなで利用する共有の掲示板型コミュニティです。みんなが気持ちよく利用できる場にするためにご利用前には利用ルール・禁止事項をご確認いただき、投稿時には以下内容をもう一度ご確認ください。
上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。
No.6185 フラワーガール
23/09/14 08:47:34
ネタバレサイト見てきた。ここの貼り付けは見る気しないけど、あちらはしつこくないし見やすい。あと2週間ちょいしかないのが残念すぎる。絶対ロスになる。
No.6190 ハネムーン
23/09/14 09:20:01
>>6185
資産家の青年・永守徹が万太郎を支援 モデルは京大法学部学生の池長孟 牧野富太郎の標本を買い取り借金解消【連載記事復刻】篤志家は大学生だった
(1)
朝ドラ「らんまん」で早川逸馬(宮野真守)は、神戸の資産家だという永守徹(中川大志)を万太郎に引き合わせました。永守は万太郎の植物標本の保管と植物図鑑発刊のための費用を支援したいと告げます。京都帝国大学を卒業したばかりだという青年の思いがけない申し出に、万太郎と寿恵子(浜辺美波)の2人は当惑もします。
実はこれも史実に沿ったエピソードです。資産家の青年は、当時は京都大学の学生だった池長孟(いけなが・はじめ)だと考えられます。
「らんまん」をもっと深く、もっと楽しく! 牧野富太郎博士の特設サイトはこちら!
大正5(1916)年のことでした。牧野富太郎の経済的な困窮は極まっていました。膨大な借金を抱えていたのです。借金を返済するには植物標本を売却するしかない。そこまで追い詰められており、そのことが朝日新聞の記事になったのです。
記事が掲載された直後、池長は牧野の標本を全て買い取って借金を解消しようと申し出をしたのです。牧野は青年の熱意に歓喜しました。
史実はどうだったのか。過去の連載記事を復刻しました。
『淋しいひまもない 生誕150年 牧野富太郎を歩く』(36)篤志家は大学生だった
牧野富太郎の経済的困窮は、京都大学法学部に通う学生によって救われた。
名は池長孟(はじめ)といい、当時54歳だった牧野より30歳ほども若い25歳の青年である。
1891(明治24)年に神戸市兵庫区に生まれた池長は、資産家であった池長家の養子に迎えられ、養父の莫大(ばくだい)な財産を若くして引き継いでいた。
このころ、後に立憲政友会総裁となる久原房之助(当時、日立製作所などを設立していた実業家)も牧野を援助しようと手を上げていた。それを断り、大学生からの申し出の方を受けた理由を牧野は特に書き残してはいない。財界の大物からの支援により、何かのしがらみが生まれることなどを懸念したのだろうか。
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牧野の貴重な標本が海外に流出するかもしれない。池長は新聞記事を読んで心を動かされ、新聞社に駆けつけた。そして標本を買い取ることを申し出た。そればかりでなく、買い取った標本はそのまま牧野に寄贈しようという。若者の純粋な篤志だった。
電光石火のごとく、話は進む。
牧野窮状の記事が朝日新聞に掲載されたのは1916(大正5)年12月18日。直後に池長の申し出があって、牧野はすぐに妻と東京から神戸に向かい、同24日、池長に面会する。
「牧野富太郎と神戸」の著書のある元兵庫県生物学会会長、白岩卓巳さんによると、自ら牧野家に出向くことにしていた池長は急な来神に驚いたらしい。
出典:高知新聞
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