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古代女性史から解き明かす皇位継承のジェンダーバイアス:女帝「中継ぎ説」を問い直す
2022.05.26
(略)
「戦前から在野研究者の高群逸枝が、奈良・平安時代には通い婚や『妻方居住婚』が一般的で、嫁入り婚はまだずっと後の時代のことだと指摘しました。子どもは母と母方の親類のもとで育つので、母親と子どもの結び付きが強い。そして、古代は男尊女卑社会ではなく、女性の地位は高かったと主張しました。ただ、戦前はもちろん、戦後もアカデミズムの世界では男性が圧倒的な多数派で、高群の主張はほとんど認められませんでした。(略)
義江氏が取り組むのは、古代の村や国の政治で、女性が果たした役割を明らかにする研究だ。『古事記』『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』、律令関連の法律書、『風土記』『万葉集』などを丹念に読み込み検証していく。
「(略)よく知られている史料でも、問題意識を持って読み直していくと、それまで “隠されていた” 女性の社会生活が見えてきます。例えば、村や豪族の中に女のリーダーがいたし、女性も財産相続権を持っていたことなど、これまでの研究が見落とした、あるいは読み違えていた事実が次々と浮かび上がってくるのです」
◆卑弥呼と女性首長たち
(略)
「『魏志倭人伝』(以下『倭人伝』)という限られた史料を基に、卑弥呼や邪馬台国の所在地を巡り何百、何千の論文が書かれていますが、今でも卑弥呼は神聖な巫女(みこ)で公の場には姿を見せず、実際の政治は弟が行っていたとされています。 “政治の実権を握るのは男”という“常識”のバイアスで見るので、誰も疑問を持たないのです」
「ところが、『倭人伝』は徹底した男尊女卑・父系社会の中国の視点による叙述だということを前提に、考古学や女性史研究の成果を突き合わせながら丹念に読み直すと、卑弥呼は実際に政治外交を担っていた統率者だったのではと思えてきます」
「例えば、外国の使者の前に姿を現さなかったのは、『巫女』だからではなく、『王』だからこそです。7世紀末に中国の宮殿にならった藤原宮が造営されて、初めて外からの使者に謁見(えっけん)するための空間が生まれるまで、ヤマト王権の王はよそ者の前に姿を見せることはなかったのです」
古墳の考古学的分析により、弥生前期から古墳前期には、列島各地に男女の首長がいたこと、女性首長の割合は3割から5割を占めたことが分かっている。中には武器を副葬した女性もいた。卑弥呼は30余りの小国の首長たちから「共立」されて王となったが、その首長たちの中にも女性が当然いたはずだ。
男女区別なく政治に参加する社会で、卑弥呼は王に選ばれ、巧みな外交によって中国から「親魏倭王」の称号を得たのではないかと義江氏は問題提起する。
◆推古天皇の実像
古代、6世紀末から8世紀後半まで、8代6人の女性天皇(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正・孝謙=称徳)が在位した。当時の男性天皇とほぼ同数だ。にもかかわらず、女帝は男系男子皇位継承の伝統の中で、やむを得ず臨時に即位した「中継ぎ」にすぎないとみられてきた。
日本初の女帝・推古は欽明天皇と蘇我堅塩(そがのきたし)の娘で、在位期間(592~628年)は36年にもおよぶ。仏法を軸とする国造りを推進したが、その功績の多くは叔父・蘇我馬子や甥・聖徳太子の働きによるものだとされている。
「『日本書紀』(以下『書紀』)が編さんされる頃から聖徳太子の神格化が始まり、あまたの伝承の中で推古が語られるので、推古の実像は見えにくい。それでも、確かな史実だといえるものだけを拾い上げていくと、2人の実力をうまく引き出して外交をした統治者であることが見えてきます」
卑弥呼の「共立」と同様に、推古の時代にも、有力豪族たちが自分たちのリーダーだと認める人が天皇となった。一定の政治経験を積まなければ一人前とはみなされず、男女ともにほぼ40歳以上で即位する「長老原理」だった。
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