コメント

古トピの為、これ以上コメントできません

  • No.10 アイスランド・クローネ

    22/12/26 13:04:58

    そもそも側室もない今の時代、男系男子だけで継続するなんて無理じゃない?
    どうしても男系男子継承にこだわるなら、愛子さまが男系の旧宮家から婿をもらうとか?

  • No.9 ツバル・ドル

    22/12/26 13:04:25

    >>7
    孝謙天皇と道鏡だっけ?

  • No.8 円もたけなわ

    22/12/26 13:03:04

    >>7
    やらかした男性天皇もいるのに問題にならないのは不自然だよね

  • No.7 チェコ・コルナ

    22/12/26 13:00:47

    長々と書いてるけど、そうだとしても、当時の女性天皇の夫は男系の男子で、父親が皇族じゃない女系の天皇は存在してないんだから説得力ないし、過去に女系も可能性があったのに、やらかした女性天皇がいたんじゃなかったっけ?とんでもない男に引っかかっちゃった系のヤツ。

  • No.6 円もたけなわ

    22/12/26 13:00:02

    今のままの制度だと、次の天皇って秋篠宮さまなんだろうけど、あの人は昔から皇室の制度変えたがってるからメチャクチャになりそう

  • 広告
  • No.5 フォリント

    22/12/26 12:50:36

    「男系男子しか天皇になれないのが伝統だ」って勘違いしてる人、多いよね

    むしろ皇室1600年の歴史の中で、たった100年くらい前からの制度なのに

  • No.4 ジブラルタル・ポンド

    22/12/26 12:47:30

    次の天皇は愛子さまでいいよ
    秋篠宮さんちの人達にはムリだと思う

  • No.3 ジュドル

    22/12/26 12:46:22

    昔みたいに女も天皇になれるように戻せばいいのにね

  • No.2 トリニダード・トバゴ・ドル

    22/12/26 12:45:24

    とりあえず小室さんの義弟が天皇になるのは嫌だ

  • No.1 USドル

    22/12/26 12:43:32

    「激しく実力を競い合いながら国家を統一していく過程で、朝鮮にも派兵した時代ですから、経験豊富で皆を率いる統率力を持つのが王です。例えば、推古の父である欽明天皇は、31歳で即位しました。その時に自分はまだ幼く、経験不足なので、異母兄であった先王・安閑の妃(きさき)の方が経験豊富で統治力があると、まず彼女に依頼した。だが固辞されたので、自らが即位したと『書紀』には書かれています。史実かどうかは別にして、31歳はまだ若いがやむなく即位したという言い訳を記したということは、男女問わず経験がある者が国を率いたほうがよいという考え方があったからです」

    推古が39歳で即位したとき、聖徳は20歳そこそこだった。当時の「長老原理」の下では、聖徳が熟年の推古に代わって政治を運営したとは考えにくい。同様に、馬子との新たな関係性も浮かび上がる。

    「叔父と姪といっても、2歳しか年齢が違いません。馬子が姪の推古を名目的に担ぎ上げて導いたわけではなく、2人は母方の蘇我氏の邸宅で一緒に育った幼なじみで、仏教興隆を通じた国造りへの価値観を共有する同志だったのではないでしょうか」

    ◆古代日本は「双系的」社会

    かつて歴史学では「父系」「母系」の考え方しかなかった。今では文化人類学の研究成果を取り入れ、古代日本は父系にも母系にも偏らない「双系的社会」だったという見方が広がっている。豪族、王族の地位を決める際には、父方・母方双方の血統が重要な意味を持ち、天皇の子どもは男女問わず皇位継承の資格を有したと義江氏は考える。

    「7世紀末、中国にならった律令国家樹立の際に初めて公式に父系原則が打ち立てられました。8世紀あたりまでは、支配層も含め、実質的にはまだ双系性の原理で動いていたと私は考えます」

    また、6~7世紀の王族は世襲王権として血の尊さを高めるために、双系的親族関係の中で近親婚を繰り返していた。この期間に即位した男女の多くは、父方・母方のどちらをたどっても、1~2代前の天皇に行き着く。

    だが、8世紀初頭に編さんされた『日本書紀』は、揺るぎない父系(男系)制度の伝統を持つ中国の歴史書の体裁にならい、皇位が一貫して父系のみで継承されてきたように描いている。

    「例えば『書紀』によれば、聖徳太子は用命天皇の息子ですが、母も欽明天皇の娘です。『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』に記された太子の系譜を見れば、双方の系統を重視していることは明らかです」

    「7世紀後半の天智天皇・天武天皇の父である舒明天皇は、2人が少年の頃に亡くなっています。母が跡を継いで皇極天皇として即位。いったんは退位しますが実力で再度、斉明天皇として皇位に就きました。後に天皇となる兄弟が成長する過程で、国家統治者としての手本を見せたはずです。とすれば、天智・天武はむしろ女系の天皇だとも言えるでしょう。また、両親(舒明・皇極)はそれぞれ、父方・母方双方で欽明天皇につながります」

    ◆「男系男子」継承は新しい制度

    皇位継承を「男系男子」に限る制度は、明治になって天皇を中心に据えた近代国家を樹立する際に生まれたものだと、義江氏は指摘する。

    「それまでは慣習に従って決めてきた皇位継承を、初めて『大日本国憲法』と『皇室典範』によって法的に定めました。最後まで議論は紛糾しましたが、最終的に女性の即位は認めない、父から息子への男系男子継承とすると決まったのです」

    「新しい制度に歴史を照らし合わせると、古代の8代6人もの女帝の存在は都合が悪い。直前の江戸時代にも2人の女帝がいました。この2人は恐らく中継ぎです。そこで中継ぎ説が生まれ、1960年代に学問の世界でも定説になりました。90年代末以降、見直しの機運が高まってはいますが、覆すには至っていません」

    「戦後は父系のイエ制度が廃止され、国民主権、男女平等が原則となり、天皇の在り方も国民の象徴へと変わりました。にもかかわらず、社会には男尊女卑的な価値観が残り、天皇が統治者だった時代に合わせて作られた皇位継承の制度が、いまだに引き継がれているのです」

    男系男子継承は明治以後の新しい制度だということが一般に認識されていないことが問題だと義江氏は言う。「天皇は古代から男系男子継承が伝統だったのだから、それを変えてはいけないと思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。その思い込みから脱して “伝統” を問い直し、現行の憲法の下での『象徴』としての天皇・皇室の在り方を、国民が皆で考えていく必要があります」

    https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00808/amp/

51件~60件 ( 全60件)

*コメント欄のパトロールでYahoo!ニュースのAIを使用しています

投稿するまえにもう一度確認

ママスタコミュニティはみんなで利用する共有の掲示板型コミュニティです。みんなが気持ちよく利用できる場にするためにご利用前には利用ルール・禁止事項をご確認いただき、投稿時には以下内容をもう一度ご確認ください。

上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。