- なんでも
- 真愛
- KDDI-SA31
- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
- 2 いいね
Pickup
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
利用ルール・禁止事項をご確認ください
誹謗中傷、個人情報、プライバシーを侵害する投稿は禁止しています。
また誹謗中傷においては、法改正により投稿者の情報開示について簡易な裁判手続きが導入されております。
画像表示ON・OFF
もう五年も前、私が19の時。母が亡くなった
その日の夜中ずっと耳鳴りがしていて眠れなかったのを覚えてる
朝ばぁちゃんの叫び声で起きた。
階段を急いで降りると、母が人形みたいになっていた。
自殺だった。
愛犬のリードで。
なによりも大切なはずだった母がいなくなった。
まだ家族みんな自分をせめつづけてる
お金が無いのに私には色々買ってくれた
母が居なくなったら…
借金だらけだった
生活、苦しかったんだね気づけなかったよ。
孫を見せてあげたかった。
毎日思う、母ちゃんに会いたい会いたい会いたいって。
本当に亡くなって焼いてしまったらもう会えなくなるんだね
亡骸をよくみておきなさいって親戚は言った。
私は見れなかった。
さわれなかった。
今思うとあれが最後だったのに目を背けて後悔してる
母ちゃん、本当にもう会えないんだね
想わない日は無いよ
古いトピあげてゴメン。
どっかに吐き出したかったんだ。
初めて間近に見る次女に長女は可愛いねって言った。寝てるの?ミルクあげたいなぁって。
もう、どう説明すればいいか分からなかったよ。
お世話したいって駄々こねる長女を見てるだけで泣けた。泣いてる私を見て娘もさらに泣いてさ。
三歳の子に死を理解させるなんて難しくて、次女ちゃんは病気でいっぱい辛い思いしたから、今はお空の上でいっぱい遊んでるんだよって繰り返し説明してたと思う。
そんな説明でも長女なりに納得してくれて、「次女ちゃんはお空の上から見てくれてるんだよね」とか言うようになった。
泣いちゃうからあまり見ないんだけど、今日長女と次女のアルバム見てたら「次女ちゃんはね、お空の上でミルクいっぱい飲んで大きくなるんだよ。大きくなったら会いに来てくれるんだよ」って言われて、思わず号泣。
私の中では次女はずっと四ヶ月のまま成長が止まってたんだ。
長女の言葉に教えられた気がした。
次女ちゃん。お空の上でどれくらい大きくなった?
まだまだ先だけど、ママが会いに行くの待っててね。
整理しないで衝動で書いたから読みづらくってゴメン。終わる。
>>501
足りなくないよ。一卵性双子だから一人がダメだったから必然的に、もうひとりもだめだったって事じゃないかな
>>492
私も思った。双子のもう一人の方は?片方が生きてたのに次の日陣痛起こして出産したって事?
水差して本当すみません。涙流しながら読んでたけど疑問が残ってしまって…
こんなトピあったんだね…。
長文&自分の事でゴメン。
去年の夏出産した次女が、18トリソミーという障害を持ってた。病名を告げられた時、医師からは一歳まで生きられないだろうと言われたんだ。
次女を出産した大学病院では子供の面会がNGで、三歳の長女は遠いガラス越しでしか次女の姿を見られなかった。そんな長女の為にも、そして命に限りのある次女の為にも、退院して家族での時間を大切にしたいと思った。
心臓に穴があいてて、鼻に酸素チューブ付けて口にはミルクのチューブ付けてた次女。ミルクの度に酸素濃度が下がってドキドキしたけど、状態も安定して退院目前だった。
次女四ヶ月で泊まり込みで退院練習する予定の日、病院から状態が急変したと電話があった。心臓の状態が良くないので手術をした方がいいとの事。訳が分からないまま、手術が出来る病院に話を聞きに行き、急変してから三日後には手術してた。
変な話だけど、夫婦で次女は一歳までは絶対に生きるって思いこんでて、だから手術もあまり不安じゃなかった。数時間の手術の後、格段に顔色が良くなった次女を見て、もうすぐ家に帰れるよって思った。
でも手術から三日後に、次女は空に旅立っていった。手術は成功したのにな。
医師から解剖を勧められたけど、断った。
これ以上傷付けたくない。何より早く家に連れて帰りたかった。
>>492
上の子(長女)→死産された双子→下の子(長男)のはずだから、『お姉ちゃん・弟』で合ってる
あげ
アゲ
あげ
>>399
絶対嘘だ。おかしいよ。
なんか小説みたいな書き方だし嫌だわー
>>399
エコーは白黒だよ
亡くなっても黒くなるわけない
しかも一人生きてるなら普通は帝王切開じゃないの?
>>399
子供一人足りないけど…
>>399
死産後2ヶ月で妊娠にびっくりした
色んなお話聞きたい
オナラと同時にンコ漏らしてしまい、私が「漏らしてしまった~」とトイレに走ると子供もトイレに付いてきて「も~ママ臭いな~漏らしちゃダメでしょ」と説教された…
漏らしたパンツを片手にお風呂に行き洗ってたら子供が新しいパンツを持って来てくれた。
厳しいながら優しさを感じた!
>>484
全く泣けません
ついに読破しました。
(号泣)
>>448 がんばってね!!!
(T_T)
お腹下してトイレに駆け込もうとしたらトイトレ中の息子が笑顔で「ママ!オシッコ今出る♪」とフルチンでかけてきた時。
笑顔の息子に我慢させて自分を先にしてしまった腹の弱さに泣けた。
泣ける。あげ
母は毎日仕事と家事で忙しくイライラしていた。そのイライラを定年後でずっと家にいた父に当たっていた。でも父はいつも無口で我慢強く母がイライラしていても当たられてもうんうんと話を聞く優しい父だった。そんな父が心筋梗塞で倒れた。何度も心臓は止まりいつしぬか分からないのに医者が言った1%を信じた。母は仕事を休み私逹兄弟も毎日毎日お見舞いに行き眠ってる父に声をかけた。でも父はそのまま目を明ける事はなかった。火葬場で母は「私のせいで…私が悪いの!ごめんね!ごめんね」と棺を揺すった。私が「お父さんはいつもそばにいてくれるよ」と言ったけど母は「焼いてしまったらもういなくなる!もうどこにもいない!」と泣き叫んだ
今でも母は自分がイライラしていたから父が倒れたんだって責めてる。母にとって父が全てだったんだなって父がいなくなって気付いたよ。残された母を大切にしていきたいな
。゚(ノд`)゚。
あげ
これいい!
かなり泣けました・・健康で居ることに感謝し、回りの人を大切にしなきゃ、って思った。
あげ
涙止まらない。おじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、おじさん、みんなに会いたいよ…
悲しい
自分の話だけど…
私が小学5年のとき、父は肺がんで亡くなりました。父は45歳でした。
亡くなる前の父の記憶はあまりたくさんありません。
毎日遅くまで仕事をしていた事、帰ってきてから母と仲良く晩酌していたこと、何をするにも遅い私に頭をペチッと叩き叱ったこと、小学生の夏休みに学校にある花壇に水をくれに一緒に行ったこと。
思春期が訪れ、徐々にあまり父とは会話をしなくなりました。
あとは病院にいる姿しか思い出せません。
まだまだ働き盛り、単身不妊から体調がおかしいという理由で帰ってきた矢先のことでした。
レントゲンにうつった父の肺は真っ白でした。
当時の肺がん治療はとても辛く、息をするのも苦痛だったそうです。
肺から水を抜くのも、痰をチューブで出すのも、それはそれは辛く、死にたいと母にもらしていたそうです。
遂に癌は体のあちこちに転移して、内蔵は腐りはじめていました。
授業中に先生に呼び出され、病院に向かうよう言われました。
私は覚悟ができていたのか、それが現実の事として受け入れられないでいたためか、妙に冷静でした。
病院につくと、直に父は目をあけたまま瞬きもせず涙を流しました。
そうして脈はなくなりました。
私はただただそれを見ているだけでした。
それから大人になり、祖父母の死を体験し、やっと人の死を目の当たりにした気がしました。
私にとって当時の父の死は受け入れられていなかったんだと実感しました。
先日、父が夢に現れました。私ははじめて父に抱きつき想いのたけをぶつけることができました。
はじめて父に自分の感情を伝える事ができました。
泣ける話と言われれば微妙ですが。
普通の日常が幸せなんだな…
改めて思った
ちょっと感動したくて読み始めたら読破しちゃいました。
もう枕ビチョビチョ(T_T)
ないちゃった
泣いた。
寝れなくなった号泣
これかな
あげ
考えさせられるわ
涙で顔ぐちゃぐちゃ(;_;)
涙が止まらなかった…
親、子供、おじいちゃん、おばあちゃん…周りの人全てを大事にしたいと改めて思わされました。
あさん…私、読みながら号泣して胸が苦しい…あさんとお子さんからの愛情が今もたくさん貰えて旦那さん幸せ者だよ…
これが本当の『絆』なんだろうね。
あげ
る
あげさせてください。
探している方がいたので
癌って多いんだね。
健康な事に感謝しないと。
私が7歳のとき生れつき心臓に病気をもった4歳の妹が手術しました。
赤ちゃんの頃から病院にはしょっちゅう行っていたので、血液検査や注射なども痛がる様子もなく耐えていたそうです。
そして手術も決まったんですが、あまり見込みはないと言われました。
でも親は手術に賭けました。
手術室は地下?にあったみたいで暗い雰囲気の中、母は付き添いで付いていきましたが、手術室へ入って行く妹は母に泣いたりせず不安げな様子を見せるわけでもなく、手を振って入っていったそうです。
父は自営でその場におれず、私も小さかったからその場におれず、母と妹はそれが最後の別れになってしまいました。
術後、意識が戻らずそのまま亡くなったんです。
正直私は小さかったのであまり妹と一緒に何かをした記憶もなく、亡くした実感もなかったので親が子を亡くす辛さが理解できませんでした。
でも今、自分に子ができて初めて母の辛さが理解できました。
そんな私の子は妹の誕生日と同じ日が予定日で、一日早く生まれましたが、母は自分にとっての天使だと言っています。
妹が亡くなって20年。
母も3歳になる孫のおかげで段々と救われてきているようです。
あげ
私が中学2年の時におばあちゃんは亡くなりました。
その頃私は不登校で家では家族とも口を聞きたくないし顔も合わせたくない状況でした。
そんな私を心配しておばあちゃんは頻繁に家に来てくれていました。それでも私は会いたくなくて二階にある自分の部屋から出ずにおばあちゃんが下から私を呼んでも無視していました。
そしてお正月、お年玉が部屋の前に置いてありました。袋には 「今年は頑張ろうね おばあちゃんより」と書いてありました。
その後も私はおばあちゃんにどんな顔して会えばいいのか分からなくて避けてたんです。
後で両親に聞いた話しだと、家にくるたびに、今日も○○ちゃん←(私)顔見せてくれなかったなって寂しそうにしていたみたいです。
結局顔も会わせないままおばあちゃんは自分の誕生日の数日後に自分の家で気持ち悪いから少し横になる。といったまま息を引き取ったとおじから連絡がありました。
原因は元々あった高血圧のせいでした。
おばあちゃん、私に会いたがってたんだよね。あんなに近くに住んでるからいつでも会えたのにね。避けていてごめんね。あの頃は私、いろいろ辛い事があった時期だったの。でも後悔してるんだよ。もっともっと一緒にいたかった。いろいろな事教わりたかったよ。ほんとはおばあちゃんの事が大好きだったよ。心配ばかりかける孫だったよね。悲しい思いもいっぱいさせてしまってごめんね。こんな私も今では母親になりました。男の子が生まれたんだよ。私結婚したけど、苗字変えてないんだよ。おばあちゃんは私と妹の代でこの苗字が無くなる事を悲しんでたみたいだけど、心配しないでね。私の息子がしっかり引き継いでいってくれるよ。きっと天国で喜んでくれてるよね。
それから、おばあちゃんが私に付けてくれた名前。めずらしいけど、皆いい名前だって言ってくれるんだよ。字画もすごくいいみたい。私の事を大切に思ってくれていた事をもっと早くから気付いていればよかった。おばあちゃん孝行が出来なかった事が今でもすごい後悔です。