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- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
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これは?
これでしょ
あげ
私の母方の祖父はとにかく子どもに優しい人でした。
一時期、私の父と母がもめて妹だけ連れて母は実家に帰ってました。
そしてそんなあまり良くない状況のある日、なんの前ぶれもなく倒れて亡くなりました。
私は父と暮らしていたのでお葬式はもちろん出たものなんだかかやの外って感じで、あまりおじいちゃんとはゆっくり居れなかった。
でも必ず、私の人生の節目に夢に出てきます。
出産で意識がもうろうとすれば励ましに来て、子が産まれたら玄関ピンポンして遊びに来る。
とにかく優しかったおじいちゃんが大好きです。
親のかわりも変だけど、最悪な状況で最後を迎えさせてごめんね。
最後はもう少しゆっくりいたかったなぁ。
ひ孫、だっこしてもらいたかったです。
母が亡くなった話だけど。
小学校の時に、母が急に具合悪くなって
1週間ぐらいずっと横になってた。
その間父と母が2人で夜間の病院行った時に、今から帰るからねって電話がかかってきた時に
姉にはわからないようにトイレでこっそり泣いた。
このままお母さんいなくなっちゃうんじゃないかってものすごく不安だった。
それから2日後心不全で母は亡くなっちゃった。
元気なときに、新聞にのってる旅行の案内見て
こんな所行ってみたいな~って言ってたから連れていってあげたかったな。
もっといっぱいいろんなこと話して、教えてほしかったし買い物も行きたかった。
何にも親孝行できなかった。
今でも毎日思い出す、大好きなママ。
施設で育ち、どうしても父に会いたくて会いたくて、貯金箱持って小学校一年の時に横浜から山形まで会いに行った事がある。トラックの運転手に乗せてもらい現地についた時はただ嬉しくて紙に書かれた住所を探して名前の書いてある家を見つけた時はすごく嬉しかった。だけど玄関の外におもちゃとか置いてあって中から子供の声が聞こえた時は来ちゃ行けなかった場所に来ちゃったんだって感じた。そのまま帰り警察に保護され施設に戻って泣いてたな。高等部のお姉さんが塩むすび作ってくれてずっと側にいてくたれ記憶が忘れられないや。
目が腫れそうだわ
読破あげ°・(ノД`)・°・
今を大事にしなきゃな。
私が15才の時、父が白血病になった。
抗がん剤の副作用で熱を出し、口内炎が喉まで出来て話せなくなり、体重も30キロ台まで落ちてしまった。
骨髄検査は15歳の私と弟は出来ず、家族は皆不一致。
もし私が検査出来る年齢だったら‥もし型が合っていたら‥
仕方ないと分かっていても‥今でも苦しい。
意識が危なくなりかけてる時、学校から駆けつけた私の名前を呼び「ごめん‥」と震える手で頭を撫でてくれた。
最後はモルヒネ投与で亡くなりました。
病室の引き出しにあったメモには「家族と離れたくない」「こわい」と小さく書いてあった。
ごめんね。
何も分かってあげられなかった。
何もしてあげられなかった。
私の名前を呼ぶ声が今でも忘れられない。
お父さん、会いたいよ。
一分でもいい、一瞬でも、もう一度会いたい。
別に泣けない
の時に隣のベッドで寝てる患者さんが飛び降り自殺した人で複雑骨折となんかで夜中にうなってて話せるようになってから仲良くなり話してて理由はともあれ、生きてて良かったね。って話にもなりお互い頑張ろうって励ましあったとき。
8年前、ガンで母を亡くしました。
肺から脊髄、脳へとガンが転移し手遅れでした。
モルヒネで痛みを軽くするだけの治療しか出来ず、その副作用も計り知れず、母はワタシに訴えました。
「早く殺してちょうだい…。」
これがワタシの聞いた母の最期の言葉です。
その言葉を聞いた時ワタシは絶句してしまい何も言えませんでした…。
何と返答してイイのか分からず、言葉が出なかったのです。
涙が溢れても来たけど、母に泣いている顔を見せちゃダメだ!と思い歯を食いしばって耐えていました。
それから2日後、母は苦しみの中亡くなりました。
しばらくして母の遺品を整理しているとワタシが産まれてきた時の育児日記が出てきました。
そこには育児への悩みも書いてあったけど、それ以上にワタシへの愛情あふれる言葉が沢山並んでいました。
自分がどれだけ母に愛され、大切に育ててもらってきたかを思い知り、声をあげてワンワンは泣いてしまいました…。
嬉しかった…!
本当に嬉しかった…!
正直、母には親孝行らしい事は1つもしてあげられませんでした。
今でも後悔しています。
お母さん、産まれ変わったらまたお母さんの子供として産まれて来てもイイ?
そうしたら今度は沢山親孝行させてね…。
産んでくれてありがとう。
涙とまらない
癌だったのに旦那には好きな人ができたって嘘ついて子供もおいて離婚…
きっと私にはできない…
あげ
私も後で書こう
なにかの冊子で読んだ。覚えてるところだけで申し訳ないけど。実話です
私は一年前に夫を亡くしました。
その日「いってきます」と言って冷たくなって帰ってきました。
私には年中さんの娘がおり最近「字を教えて」と言うので教えました。
幼稚園での七夕参観日、先生に呼ばれて渡された短冊を見て言葉をなくしました。
「いいこにするのでぱぱにあわせてください」
パパ…私もも会いたい。
止まらない。
育児に悩んでたのがちっぽけに思える。明日から頑張ろう!
あげてみる。
超泣いた
あげ
読むよアゲ
あげさせてm(._.)m
4年前の話しです。ずっと胃癌で入院していた、祖父の意識が急になくなり生死をさ迷いました。私の結婚式の1週間前の事だったので、結婚式とお葬式がもしかぶっちゃったらどうしょう?なんて最低な事を思ってしまいました。結婚式3日前に奇跡的に意識を取り戻したと聞いて、式場から(最終打ち合わせで式場に行っていた)急いで会いに行ったら、苦しいだろうに呼吸器を外して、『〇〇結婚おめでとうなぁ…』って笑顔で言ってくれました。意識を取り戻したので、当分は大丈夫だろうと言う事で、私たちは海外に新婚旅行に行きました。1週間後、空港から親に電話したら祖父は寝たきりだけど意識もしっかりしてると言うので 、次の日お土産を持ってお見舞いに行くつもりでした。ですが、次の日眠るように祖父は亡くなりました。まるで私と夫が無事に旅行から帰って来るのを待っていてくれたかのように…。
おじいちゃん、今までありがとね。私幸せになるからね。
泣けますね。
あたしも自分の話を。。
高校生の時に先生に譲ってもらった猫。お父さんとお母さんが大好きで、あたしはいじわるばっかりするから嫌われてた。あたしは25歳で結婚して、妊娠して6月に里帰りしてた。息子を見て『何、こいつ…』みたいな顔して、一切近寄らず。
9月にまた里帰りして4日目。息づかいがなんか変だなぁって次の日病院連れていったら『ガンです。余命も長くないだろう』と言われた。頭を鈍器で殴られたような衝撃だった…。ガンに良い病院を紹介してもらい、週明けに行こうと電話した。そしてその日の夜中…苦しそうに息をして、最後に『にゃん』と泣いて逝ってしまった…
息子と遊ばせたかった。みんなが『あんたが帰ってくるの待ってたんだよ』って言ってくれた。死んでから1年。一度も夢に出てくれなかった。それが昨日、来てくれた。目が覚めたら涙出た。来るの遅いよ!待ちくたびれたやん。でも来てくれてありがとう。
私の父は単身赴任で盆と正月にしか帰ってきません。私は父が40の時の子供で当時中2、思春期真っ只中の私には鬱陶しい存在でろくに口もききませんでした。そんなある日健康診断でひっかかって手術しないかんらしいから帰るわ~っと電話がありました。帰宅後家族で病院に行き母だけが呼ばれました。末期ガンで手のほどこしようがなく長くて今年いっぱいだと…。視線の先には検査を終えたお父さんが「めんどくさいなぁ」と笑いながら歩いてきました。でも前日の夜中痛みで寝れなく真っ暗な部屋でうつむきながら座ってるのを私は今でも覚えてるよ。入院して今週末は○○の(弟)の小学校の運動会あるから初めて行ってみようかなぁ~と話してたのに何でその日に死んじゃうの?入院して一週間なんて早すぎるよ。私何にもしてあげてない。くさい、うっとおしい、ダサいお父さんとか最低だよね。きっと罰があたったんだね。今でも握ったお父さんの手の大きさ覚えてる。私、今年母親になりました。お父さんの初孫だね。おじいちゃんになったんだよ。天国で見てくれてますか?
お父さん会いたいです
もう一度私の名前を呼んで下さい
あげ↑↑
あ
2年前、双子の女の子を亡くしました。
一卵性の双子だと分かった時、二卵性に比べてトラブルが多いと言われていました。
6ヶ月に入り、もう性別分かるかな?
と、楽しみに健診に行きました。
一人目は順調に大きくなっていました。
もう一人の姿を写した時、先生の手が止まりました。
エコーに写った我が子は、黒くて、私が見てもすぐ、亡くなっていると分かりました。
もう一人の子が、一生懸命亡くなってる子を蹴っていました。
私は嫌だと泣き叫ぶ事しか出来ず、その時、初めて主人の涙を見ました。
私のお腹を撫でながら、頑張れ…生きろ…と。
次の日、薬を使い、陣痛を起こしました。
とても辛い出産でした。
抱いてあげることも出来ないまま、天国に逝ってしまいました。
主人にそっくりな、可愛い女の子でした。
小さな棺に入ってる子供を見て、主人や親達も泣きました。
皆が泣いている中、上の子(1歳)が、一人一人の顔を見ながら、一生懸命笑っていました。
泣くのを我慢して…。
それから1年後、息子が生まれました。
障害がありますが、娘達の事を思うと、生まれて来てくれただけで良かったと思っています。
『お姉ちゃん、弟、パパ、ママで仲良く暮らしてるよ!
いつか、そっちに行った時、いっぱい抱っこさせてね。』
数年前の話…
待望の二人目を妊娠。上の子(当時5歳♂)も赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしていました。
毎日お腹をなでなでしてくれて、「お兄ちゃんだよ~」なんて話しかけてくれて、みんな本当に誕生を待ち望んでいました。
無事出産してから初対面…
最初は不思議なものを見る感じでキョトンとしてたけど、ずっと見ながらニヤニヤしてました。
でも…赤ちゃん心臓に異常があったんです。
生まれてから2週間後天国に行ってしまいました…
普段転んでも叱られても泣かないお兄ちゃん。
「死」というものがわかってるのか、わかっていないのか…
でも…もう会えなくなってしまう。抱っこできないんだよ。とパパが伝えたら、今まで見たこともないような剣幕で
「嫌だ!!嫌だ!!」
と泣いていました。
冷たくなった赤ちゃんをずーっと抱っこして離しませんでした。
生まれる前にママと選んで買ってきた服を赤ちゃんに着させてあげました。
最初で最後の兄妹二人の写真を撮ってあげました。
お兄ちゃん頑張って笑いました……
今でも大切に持っています。
お菓子も妹の分をとっておいてお供えしてくれます。
泣きながら書いたので文が変ですみません。
げ
子どもと旦那系はほんと泣ける(T_T)
普通の毎日も当たり前に思ってた。
1分1秒大事にしなきゃ。
毎日幸せをありがとう(T_T)
私の周りの大切な人をもっと愛していかなきゃって改めて思ったよ。
姉は、美容師になりたくて、専門学校に行ってた。
卒業前の三月三日。
命にかかわる事故。
でも奇跡的に助かった。
そんな姉を、心配してた父。余命半年とか三ヶ月とか何回も言われてた酒飲み。病名は、ガン。
でも入退院は、繰り返してたものの、余命宣告は、毎回はずれてた。
事故にあった姉は、リハビリを、続けしゃべることもままならない状態から、多少の不自由は、あるものの、普段の生活は、余裕でこなせる位に回復して、結婚し、子供も授かった。
姉の子供が産まれた日、そのまま早く病院に行けばよかった父。馬・鹿だね。
お風呂に入ってなかったの気にしてお風呂に入って体綺麗にして病院にいった。お母さんと一緒に行けばよかったのに。
だから、抱っこ出来なかった。待望の初孫なのに。
母子同室じゃないから、ガラス越しに見ただけ。
それでも嬉しそうなお父さんの顔、覚えてる。
姉が事故にあってから
『体のせいで結婚できないかもしれない』
と1番心配してた。
心配することなかったね。1番最初に結婚して、初孫産んだよ。
安心したのかな…産まれた二日後の夜、母と晩酌してたら急に苦しくなったんだよね。
母に『病院行こう』といわれても嫌がったみたいね。家にいたかったのかなぁ…。
結局次の日の朝方倒れて病院に行ってそのまま逝ってしまったよ。大好きな日本酒のんで、余命宣告なかったのに逝ってしまったね。孫も抱かずに逝ったよ。
孫と姉がまだ入院してた病院でさ。
お父さん、あなたの初孫は、もう小学三年生なったよ。
その間に、孫全部で五人になって、お母さん孫と遊ぶの大変そうだよ。
だから、たまには、かわりに遊んであげて。
夢の中でかまわないから。
自分の体験ですが…
結婚をする前から旦那宅では3匹の猫を飼っていました。
その中の一匹、マリンというおばぁちゃん猫の話です。
マリンは猫離れしてるというか、向かうもの敵なしというかんじの猫でした。キツネと戦い、犬と戦い勝ってしまう猫です。
マリンは子供を産んでないのに、旦那が拾ってきた黒猫に乳を吸われるようになり、私が嫁いできた時、乳ガンになってしまいました。胸のところにはいくつものしこり、歳のせいで足をひきずるマリン…とても切なかった。
もうあまり動かなくなったマリン…医者にもあと3ヶ月で…と言われた。でもマリンはそれから6ヶ月も側にいてくれた。
ある日、あまり動かなくなってしまったマリンが私たちの部屋にきた。息子は隣で寝てるし、「マリンも一緒に寝よ」マリンは布団の中に入り、あたしの腕を枕にして寝ていた。
あたしが起きた時、マリンはまだ生きていた。
あたしが夕飯の支度をし始め、部屋から「ニャ」あたしは部屋に言ってみた。「マリン~あらら~お漏らししちゃったのぉ?しょうがないねぇ~」あたしは固まった。目が開いてるのに、動かない…。そう、お別れの時がきてしまった。マリンの死に方は歩こうとしてそのまま力尽きたような死に方だった。あたしはマリンを抱きかかえ号泣した。
猫は飼い主から離れて死ぬと聞いたことがある。マリンは私が部屋からいなくなるのを待っていたのだろう。
あげ
あと、私も、若くして子供ができ、誰にも相談できずいろいろ悩んで鬱になってた時、祖父の御墓の前で、一人で祖父に話しかけたことがあったの。そしたら何故か今まで悩んでたのが嘘みたいに気持ちがスッキリして、頑張ろう!って思った。今ではその子も3歳になり、色々大変なこともあったけど、毎日幸せに暮らしてます。小さい頃から可愛がってくれたおじいちゃん、これからも見守っててね!大好き☆
私の母の話。
私の祖父(母の父親)が倒れ、あまり良い状態でない日が続いてた。でも母は地方から東京に嫁いで来たので、なかなか実家に帰れなかったみたい。
ある日ふっと空を見たら、祖父の顔が映ったらしい。それで何か感じて、母はすぐ飛行機の手配をして、翌日には祖父の病院に行った。その日は偶然に母の誕生日。ほとんど意識もなかった祖父だが、母が「今日私の誕生日だよ、お父さんの娘に生まれてよかった!ありがとう」と言ったら、涙を流したらしい。その翌日祖父は亡くなった。母は祖父のコトがすっごく大好きだったし、祖父も兄弟の中で、一番可愛がってた母に一目会って、誕生日を祝ってあげたかったんだろうな。最期の時にこんなに気持ちが通じ合えるなんてステキだな、と思った。
あげます(>_<)
読破。1レス目から泣きまくりだったよ…
そんな私も学生時代に母を亡くしました。
母は高速で1時間位するがんセンターに入院していたのと、私が専門学生で検定や資格の勉強や就職活動に追われていたのもあって、
なかなかお見舞いに行けませんでした。
必ず治ると信じていたし、弱った母をあまり見たくなかったのもあります。
しかし約一年の闘病の末、母は亡くなりました。
私は一番苦しかったのは母なんだから今は泣いちゃダメだ…と何故かお葬式が終わるまで号泣するのを我慢していました。
そしてお葬式から数日後、何気なくリビングの引き出しを開けたら、母が入院中書いていたメモ?みたいな物が出てきたした。
そこにはその日食べたものと、一言日記のようなものが書かれていた。最初はしっかりした字だったのに最後はミミズの這ったような字になっていって、
「新しい抗がん剤が効く確率は10%らしいけど、その10%を信じて頑張る!」とか「治ったら美味しいもの食べいく」とか、弱々しくて元気がなさそうだった母なのにこんなにも強く頑張っていたんだと…
我慢していた涙が一気に溢れて号泣してしまいました。
病気がわかるまで反抗ばっかしてた事やあまりお見舞いに行けなかった事が悔やまれて本当に時間が戻ってくれたらと思いました。
そしてその後私は結婚し子供を産みましたが子に障害があり、頼る人も居なく他にもショックな事等が重なり本当にノイローゼになりそうになった時期もありましたが、
母を心配させちゃいけない、私が幸せになる事が母への恩返しだと思い頑張ってこれました。
私が今まで頑張ってこれたのは本当にお母さんのおかげ。本当にありがとう。これからも不安はあるけどずっと見守っていてください。
もう死にたいともうかダメだなんていわないよ!頑張るから!
06年の10月くらいに似たような境遇?の方が居てなんだか母と重なってしまいました。勝手に重ねてごめんなさい。
そしてだらだら長文ごめんなさい。
私が中3の時に父が急死。亡くなる一週間前に
厳格で冗談なんて言ったことがない父が
「お父さんし んでいいか?(笑)もうえらいわ(笑)」って。私は
「まだまだ働いてよ(笑)」って冗談で話てた。夜には兄(高3)を呼んで
「保険の証書と定期の証書はここにある。大学入試はいっぱい受けろ。金はある。入試も人生の勉強や」
と話をしていた。
自分の死がわかっていたのかな?ごめんなさい。もっと親孝行してあげたらよかった。
涙が止まりません
あげ。
家族や自分をもっともっと大切にしていこうと思った。
した!
余計寝れない…&#x{11:F9D3};
動物系は泣ける(ノ△・。)
我が家には飼い続けて17年になる猫、ミルクがいました。青い目、白い毛がとても綺麗な自慢の猫でした。
私が2人目を妊娠したと同時にミルクに癌が見つかりました。
赤ちゃんにも異常が見つかり障害が出る可能性が…。
私は家に帰り、ミルクに泣きながら癌の話と、赤ちゃんにも障害が出る可能性がある話をしました。ミルクはいつもの様に私の話を黙って聞いていました。その後私は切迫流産の恐れで入院することになりました。「私も頑張るからミルクも頑張ってね!」と、声をかけ、家を出ました。
入院も2ヶ月過ぎた頃、ある日突然、赤ちゃんの異常を示す値が普通レベルまで下がり、正常数値になりました。先生も何故そうなったのか不思議がっていました。
その事を旦那にメールで知らせると、
「ミルクが守ってくれたのかもね」
と、言いました。
意味が分からず聞くと赤ちゃんの値が戻ったと分かった日に、ミルクが天国に旅立ったそうなんです。
その顏はとても安らかで、まるで「何にも心配いらないよ!大丈夫!」と微笑んでいるような顏だったと言っていました。
沢山の想い出をくれたミルクへ。
赤ちゃんはあなたのおかげで、とっても元気です!最後にあなたの姿を見てあげられなくてごめんね。虹の橋でいつまでも私達家族を見守っていて下さい。ありがとう。大好きだよ!
うるうる…
二年前子供を授かり、結婚した私。
同時期病気で入退院を繰り返す祖父がいました。無事元気な子供が生まれ、退院して元気になった祖父が、『三人で家に焼き肉を食べに来い』と言い家族三人で食べに行くことになりました。食べてる途中、厳格な祖父が旦那に『二人を宜しく頼むなぁ』と言いました。
それから数日後、子供を連れて祖父の所に遊びに行くと祖父が子供に『早く大きくなって親孝行しろよぉ』っとまだ生まれて三ヶ月の我が子に言ってました。
それから三ヶ月後…真夏の暑い日。突然祖父は亡くなりました。あんなに元気だったのに…
あの言葉は絶対忘れません。私の事想ってくれて、心配してくれて本当にありがとぅ。
泣いたあげ
私の結婚が凄く嬉しかったみたいで結婚式の時ピースで私と写真とってた。
今までピースなんてしたことないのにね。
私が妊娠して横になってるといっつも毛布かけてくれたね。「ひ孫が男の子ならグローブ買ってやる。」おじいちゃんの口癖だったね。
私が妊娠5ヶ月目のある日おじいちゃんが倒れた。
「たいした事ない」ってお母さんは言ったけど心配だから病院へ行った。たいした事ない…
おじいちゃんは集中治療室にいた 脳梗塞…大丈夫だよね?絶対治るよね?。がんばって…。
6日後意識が戻らないまま天国へ旅立ちました。
あれから5年……
おじいちゃん、あの時の子供は立派な男の子です。 それと、男の子がもう一人生まれました。
そおいえばこの前おじいちゃんが夢に出てきたよ「ひ孫に買ってやる」ってまだ言ってたよ。
ありがと。おじいちゃん
読んだ事ある人いるかな?
あげ
ロミオとジュリエットだな。泣けた。