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波瑠(34)と高杉真宙(29)が結婚!
13/02/06 12:47:01
>>446 柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。 メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチから体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一になった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。 受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントをしています。意味深です) 柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く望んだから、でもありました。 つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ柔道関係者であったわけです。 である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然の流れ。 それはわかる。よーくわかる。 でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれのスポーツと同列に論じていいもんなんでしょうか。 楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。ずっと言い続けてきたことです。 柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとって楽しいことでしょうか。 スポーツは勝つから楽しい。勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかってくる相手を倒したらなお楽しい。勝利を目指す。 それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネルギー。 じゃあ、武道はどうなのか。 勝利はもちろん大切ですが、それ以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。 だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来のために、やらせる。 柔道には受け身というものがあります。初心者はたいてい、これから始めます。 サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間からすると、これ、ちょっと不思議です。 だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。 いかに負けた際のダメージを少なくするか。 すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなくイレギュラーなトレーニングだと思うのです。 同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」はあっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」なんてトレーニングはないわけですし。 つづく
13/02/06 12:51:07
>>447 誰だって、負けて楽しいわけがない。 にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが「負け方」。 この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にもかかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが受け入れられてしまった。 日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。 これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。 「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。 目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道ならではの思考です。 だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポイントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイルがどうもしっくりこない。 一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなければいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポーツ的な思考。 つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつかず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっての柔道だと思います。 先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによって理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。 スポーツをやっていれば根性がつく。 スポーツをやっていれば実社会にでても役に立つ。 だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。 つづく
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古トピの為、これ以上コメントできません
13/02/06 12:54:25
>>448 なぜこうなったのか。 日本に武道があったから、です。 騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園田監督は、記者からの 「(体罰をふるうという行為は)あなたが特殊だったのか。それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対し 「わたし以外の人間がやっているのを見たことがないので、わたしが特殊だったのでしょう」 と答えました。 これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。 すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。 この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。 長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。 で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりもするわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコならばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです) 柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、という声が主流派になりつつあります。 バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ重さで語られています。 柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだとはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。 日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえるようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでしょうか。 そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。 つるし上げの記者会見に出席する。 自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本人が多数派となる時代になっていくのではないか。 それで、いいのか。 迷ってます。
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ママスタコミュニティはみんなで利用する共有の掲示板型コミュニティです。みんなが気持ちよく利用できる場にするためにご利用前には利用ルール・禁止事項をご確認いただき、投稿時には以下内容をもう一度ご確認ください。
上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。
No.447 つづき
13/02/06 12:47:01
>>446
柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。
メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチから体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一になった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。
受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントをしています。意味深です)
柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く望んだから、でもありました。
つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ柔道関係者であったわけです。
である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然の流れ。
それはわかる。よーくわかる。
でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれのスポーツと同列に論じていいもんなんでしょうか。
楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。ずっと言い続けてきたことです。
柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとって楽しいことでしょうか。
スポーツは勝つから楽しい。勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかってくる相手を倒したらなお楽しい。勝利を目指す。
それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネルギー。
じゃあ、武道はどうなのか。
勝利はもちろん大切ですが、それ以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。
だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来のために、やらせる。
柔道には受け身というものがあります。初心者はたいてい、これから始めます。
サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間からすると、これ、ちょっと不思議です。
だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。
いかに負けた際のダメージを少なくするか。
すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなくイレギュラーなトレーニングだと思うのです。
同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」はあっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」なんてトレーニングはないわけですし。
つづく
No.448 つづき
13/02/06 12:51:07
>>447
誰だって、負けて楽しいわけがない。
にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが「負け方」。
この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にもかかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが受け入れられてしまった。
日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。
これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。
「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。
目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道ならではの思考です。
だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポイントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイルがどうもしっくりこない。
一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなければいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポーツ的な思考。
つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつかず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっての柔道だと思います。
先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによって理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。
スポーツをやっていれば根性がつく。
スポーツをやっていれば実社会にでても役に立つ。
だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。
つづく
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古トピの為、これ以上コメントできません
返信コメント
No.449 つづき
13/02/06 12:54:25
>>448
なぜこうなったのか。
日本に武道があったから、です。
騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園田監督は、記者からの
「(体罰をふるうという行為は)あなたが特殊だったのか。それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対し
「わたし以外の人間がやっているのを見たことがないので、わたしが特殊だったのでしょう」
と答えました。
これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。
すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。
この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。
長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。
で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりもするわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコならばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです)
柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、という声が主流派になりつつあります。
バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ重さで語られています。
柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだとはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。
日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえるようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでしょうか。
そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。
つるし上げの記者会見に出席する。
自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本人が多数派となる時代になっていくのではないか。
それで、いいのか。
迷ってます。