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「俺より稼いでから言え」なんて返す?
11/08/14 18:57:01
>>70 門田 どういう思いだったのですか。 前田 標的と言われたウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。 生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。 門田 実際の攻撃はどうでしたか。 前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。 空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。 ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。 外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。 が、肝心の外務省がそれをしていなかった。 戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。 それは今でも変わらないです。 ≪痛恨のミッドウェー≫ 門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。 原田 昭和17年6月5日朝、上空哨戒(しょうかい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。 すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。 激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。 ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。 それで甚大な被害を受けてしまった。 こっちは目前の敵に必死でしょう。 全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。 全ての狂いはここから始まっている。 前田 索敵(さくてき)の怠慢以外の何物でもない。 巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。 当然、先には敵空母がいる。 なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。 致命的なミスでした。 ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。 発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。 こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。 終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。 何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。 つづく
11/08/14 19:41:14
>>71 ≪瀕、死の負傷のなかで≫ 門田 着艦すべき空母が次々やられ、原田さんは海に不時着水したのですか。 原田 空母がやられても、まだ巡洋艦や駆逐艦が残っているので、私も上空哨戒を続行し、必死で戦いました。 こっちで飛んでいるのは私だけで、燃料が切れるまで飛び、駆逐艦脇の海面に着水したのですが、そこを敵機に攻撃され、救助の駆逐艦が逃げてしまった。 門田 救助されたのはいつだったのですか。 原田 なかなか来てくれなかった。 フカは自分より大きなものはかじらないというから、首のマフラーを足に縛り付けてみた。 もうダメと思って家内や子供のことが思い浮かびました。 でも、それを過ぎて、もう死、ぬしかない、と思いました。 マフラーも外したが、今度はフカがなかなか来ない。 そのうち静かで穏やかな気持ちになっていくのです。 やるだけやった。 もういい、という諦めですね。 門田 諦めですか。 原田 実は私は飛行機に乗るまでとても臆病で死が怖かった。 死に直面した時の苦しみを何とか取り除けないかと高僧に意見を求めたこともあった。 そのとき「あれこれ悩んでもつまらない。死、ぬとき誰でも多少の苦しみはある。でも、いよいよその時には案外穏やかになれる。諦めがあれば、人間は静かに穏やかに死、ねる。だから兵隊さん、心配はいらない」と言われたのです。 その言葉の意味がその時、わかったような気がしたのです。 前田 加賀の艦上にいた私もドーントレスの爆撃で左の膝の上をえぐられる負傷を負いました。 足が吹っ飛んだ感じでした。 救助を受けるためにいったん海に落とされ、海から駆逐艦に移ろうとした。 でも敵の攻撃でできない。 私もただ海を漂うだけでした。 手ぬぐいで傷をしっかり縛って止血したのが幸いして3時間後に引き上げられ、命は取り留めました。
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No.71 つづき
11/08/14 18:57:01
>>70
門田 どういう思いだったのですか。
前田 標的と言われたウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。
生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。
門田 実際の攻撃はどうでしたか。
前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。
空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。
ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。
外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。
が、肝心の外務省がそれをしていなかった。
戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。
それは今でも変わらないです。
≪痛恨のミッドウェー≫
門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。
原田 昭和17年6月5日朝、上空哨戒(しょうかい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。
すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。
激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。
ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。
それで甚大な被害を受けてしまった。
こっちは目前の敵に必死でしょう。
全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。
全ての狂いはここから始まっている。
前田 索敵(さくてき)の怠慢以外の何物でもない。
巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。
当然、先には敵空母がいる。
なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。
致命的なミスでした。
ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。
発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。
こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。
終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。
何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。
つづく
No.72 つづき
11/08/14 19:41:14
>>71
≪瀕、死の負傷のなかで≫
門田 着艦すべき空母が次々やられ、原田さんは海に不時着水したのですか。
原田 空母がやられても、まだ巡洋艦や駆逐艦が残っているので、私も上空哨戒を続行し、必死で戦いました。
こっちで飛んでいるのは私だけで、燃料が切れるまで飛び、駆逐艦脇の海面に着水したのですが、そこを敵機に攻撃され、救助の駆逐艦が逃げてしまった。
門田 救助されたのはいつだったのですか。
原田 なかなか来てくれなかった。
フカは自分より大きなものはかじらないというから、首のマフラーを足に縛り付けてみた。
もうダメと思って家内や子供のことが思い浮かびました。
でも、それを過ぎて、もう死、ぬしかない、と思いました。
マフラーも外したが、今度はフカがなかなか来ない。
そのうち静かで穏やかな気持ちになっていくのです。
やるだけやった。
もういい、という諦めですね。
門田 諦めですか。
原田 実は私は飛行機に乗るまでとても臆病で死が怖かった。
死に直面した時の苦しみを何とか取り除けないかと高僧に意見を求めたこともあった。
そのとき「あれこれ悩んでもつまらない。死、ぬとき誰でも多少の苦しみはある。でも、いよいよその時には案外穏やかになれる。諦めがあれば、人間は静かに穏やかに死、ねる。だから兵隊さん、心配はいらない」と言われたのです。
その言葉の意味がその時、わかったような気がしたのです。
前田 加賀の艦上にいた私もドーントレスの爆撃で左の膝の上をえぐられる負傷を負いました。
足が吹っ飛んだ感じでした。
救助を受けるためにいったん海に落とされ、海から駆逐艦に移ろうとした。
でも敵の攻撃でできない。
私もただ海を漂うだけでした。
手ぬぐいで傷をしっかり縛って止血したのが幸いして3時間後に引き上げられ、命は取り留めました。
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