戦争をすると言った人 へのコメント(No.70

  • No.70 明日は終戦記念日

    11/08/14 18:52:26

    長文(インタビュー記事)ですので分割します。

    日米開戦70年目 散った青年たちの潔さ、教訓に
    産経新聞 8月14日(日)7時56分配信
     「終戦企画座談会」
    【日米開戦 70年目の検証】兵士の証言

    ◆横山岳夫氏 原田要氏 前田武氏 
    司会・門田隆将氏

     今年は日米開戦70周年で大正100年でもある。
    先の大戦に臨んだ兵士の多くは大正生まれで、戦場を生き抜き、戦後は焼け跡から日本を立て直した「復興」の立役者でもある。
    私たちの前に再び「復興」という重い課題がのしかかっている今、大正世代の証言や生きざまに目を向けるべきではないだろうか。

    あすは終戦の日。

    「太平洋戦争 最後の証言」の著者、門田隆将氏の司会で最前線の戦場に臨んだ元兵士が戦争と後世への思いを語った。

     ■宣戦布告待った「真珠湾」

    門田 今年は日米開戦70周年です。
    今日は、先の大戦の当事者にお集まりいただきましたが、まず真珠湾攻撃に臨んだ前田さんにうかがいます。
    真珠湾の攻撃を初めて告げられたのはいつだったのでしょうか。

    前田 舞鶴航空隊から転勤で鹿児島に配属されたのは真珠湾攻撃の3カ月前。
    ここで私は鹿児島湾で超低空から雷撃する訓練を連日続けました。
    海面わずか10メートルから魚雷を落とす。
    高度はそれ以上でも以下でもダメという難しい訓練でした。

    門田 真珠湾攻撃と知っての訓練だったのですか。

    前田 まだ誰も真珠湾とは聞かされていません。

    門田 原田さんはいつ告げられたのですか。

    原田 昭和16年11月の終わりです。
    択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に連合艦隊が集結、そこで初めて各艦長らに明かされました。
    「米国と外交交渉をしておるが、うまくまとまらない場合、攻撃する」と米国との開戦を知らされ、驚きました。

    門田 真珠湾攻撃の時、横山さんはどこにおられましたか。

    横山 戦艦「日向」に乗船して小笠原付近にいました。
    真珠湾攻撃は事前に全く知らず、ラジオで知りました。
    先の見通しなど全然考えてなかったから特に感慨などなかったですよ。

    前田 どこで、何をするとも告げられぬまま出航し、豊後水道を航行していた時です。
    加賀艦長の岡田次作大佐が全員に「ただ今より、本土に別れを告げる」と言われました。
    その後、単冠湾到着翌日の11月24日、空母「赤城」の作戦室で、真珠湾と初めて知らされました。

    つづく

コメント

古トピの為、これ以上コメントできません

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返信コメント

  • No.71 つづき

    11/08/14 18:57:01

    >>70
    門田 どういう思いだったのですか。

    前田 標的と言われたウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。
    生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。

    門田 実際の攻撃はどうでしたか。

    前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。
    空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。
    ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。
    外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。
    が、肝心の外務省がそれをしていなかった。
    戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。
    それは今でも変わらないです。

     ≪痛恨のミッドウェー≫

    門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。

    原田 昭和17年6月5日朝、上空哨戒(しょうかい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。
    すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。
    激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。
    ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。
    それで甚大な被害を受けてしまった。
    こっちは目前の敵に必死でしょう。
    全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。
    全ての狂いはここから始まっている。

    前田 索敵(さくてき)の怠慢以外の何物でもない。
    巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。
    当然、先には敵空母がいる。
    なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。
    致命的なミスでした。
    ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。
    発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。
    こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。
    終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。
    何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。

    つづく

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