カテゴリ
急上昇
少女漫画で、三大漫画を選ぶとしたら?
11/10/26 23:45:37
ここに貼らせてね。感慨深い話だったから。長文です。 ◇失われたカミを求めて 三波春夫が見つめた「絶対者」 産経新聞 10月26日(水)15時26分配信 「お客さまは神さまです」 戦後の歌謡史にのこる名言を吐いた三波春夫が逝って、ちょうど10年になる。 発言の底には、過酷なシベリア体験が横たわっているように思えた。(文・福嶋敏雄) 稲の根もとが斜めにスパッと刈られ、茶褐色になった田んぼが、ひろがっていた。 山々は遠くかすみ、手前には民家や農家が点在している。 JR信越本線塚山駅でおり、クルマが行き交う道路から農道に出た。 現在は長岡市に編入されているが、かつては三島郡塚山村塚野山という地名であった。 やがて左手の公園に、西日を受けた像のシルエットがくっきりと見えはじめた。 見なれたポーズの三波春夫像であった。 両手をひろげ、口元にはやわらかい笑みを浮かべている。 脇には「三波春夫名曲集」というボックスがあり、「チャンチキおけさ」や「東京五輪音頭」など5曲が収録されていた。 ちょっと恥ずかしかったが、「チャンチキおけさ」を押してみた。 大気が澄んでいるため、CDなどで聴くよりも、よく響きわたる歌声が、這(は)うように吹いてくる風に乗ってながれた。 ひさしぶりに聴く美声であった。 この地で生まれた三波は、父親の商売が失敗し、13歳で上京した。 南條文若の芸名で浪曲師となったが、召集され、シベリアで4年間の収容所生活を体験した。 昭和32年、「チャンチキおけさ」でデビューし、いきなり大ヒットとなった。 以降の活躍は、はぶく。 こだわりたいのは「神さま」発言である。 三波の記憶では、36年春、関西のある地方の公演で、司会の宮尾たか志が「座長、今日のこのお客さまをあなたはどう思いますか」と尋ねた。 三波はとっさにこたえた。 「そりゃもう、ありがたい。お客さまは神さまのようです」 以来、三波といえば、この「神さま」発言が定番となった。 ことし4月、瀬戸内寂聴の日本経済新聞での連載「奇縁まんだら」で取りあげられたさい、三波はこう語ったという。 「ステージが天、客席は地、その間にいる絶対者こそがお客さま、それが神さまです」 続く。
通報
古トピの為、これ以上コメントできません
11/10/26 23:48:09
>>194 「絶対者」というコトバに引っかかった。 無意識だろうが、その底には、シベリアで体験した、もうひとりの「絶対者」が屹立(きつりつ)していたはずである。 本名=ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。 スターリン(「鋼鉄の人」の意)である。 広大にひろがるユーラシア大陸の、東はカムチャツカ半島やハバロフスク、西はカスピ海の付近まで、赤や紺、黒色の丸い印が点在している。 赤は2万人以上、紺は1万人以上などとあり、その多くはシベリア鉄道沿いにあった。 旧厚生省が、終戦直後に作成した日本人収容所の分布図である。 抑留者は60万人から80万人とされるが、正確な数字は分からない。 「鋼鉄の人」が労働力不足をおぎなうために作らせたラーゲリ(収容所)には、日本人だけでなく、ドイツ人やロシア人の政治犯ら、3千万人から4千万人が収容された。 まさに「収容所群島」であった。 囚人を苦しめたのは、慢性的な食糧不足と寒さであった。 評論家、内村剛介の『生き急ぐ』によると、1日の食事は「砂糖9グラム、塩漬けのニシン22グラム、黒パン550グラム、茶5グラム」であった。 頻繁に汽車で移動させられた。 画家、香月泰男の「シベリア画集」には、亡霊のようにやせ細った囚人たちが、車両の鉄格子から顔をのぞかせた作品があった。 詩人の石原吉郎は、行間から屍臭(ししゅう)がただよってくる「葬式列車」を書いた。 続く
1件~1件 ( 全1件)
子育てや家事、旦那に関する悩み相談、TV、芸能人に関する雑談など何でもOK!
1
25/12/19 05:42:22
10239
2
25/12/19 05:40:21
499
3
25/12/19 05:13:54
9
4
25/12/19 04:22:09
29
5
25/12/19 04:55:54
192
25/12/19 04:27:28
0
25/12/19 05:47:23
7
25/12/19 01:45:52
25/12/19 00:42:28
25/12/19 05:21:48
ママスタコミュニティはみんなで利用する共有の掲示板型コミュニティです。みんなが気持ちよく利用できる場にするためにご利用前には利用ルール・禁止事項をご確認いただき、投稿時には以下内容をもう一度ご確認ください。
上記すべてをご確認いただいた上で投稿してください。
No.194 ロシアの話が出てるから
11/10/26 23:45:37
ここに貼らせてね。感慨深い話だったから。長文です。
◇失われたカミを求めて 三波春夫が見つめた「絶対者」
産経新聞 10月26日(水)15時26分配信
「お客さまは神さまです」
戦後の歌謡史にのこる名言を吐いた三波春夫が逝って、ちょうど10年になる。
発言の底には、過酷なシベリア体験が横たわっているように思えた。(文・福嶋敏雄)
稲の根もとが斜めにスパッと刈られ、茶褐色になった田んぼが、ひろがっていた。
山々は遠くかすみ、手前には民家や農家が点在している。
JR信越本線塚山駅でおり、クルマが行き交う道路から農道に出た。
現在は長岡市に編入されているが、かつては三島郡塚山村塚野山という地名であった。
やがて左手の公園に、西日を受けた像のシルエットがくっきりと見えはじめた。
見なれたポーズの三波春夫像であった。
両手をひろげ、口元にはやわらかい笑みを浮かべている。
脇には「三波春夫名曲集」というボックスがあり、「チャンチキおけさ」や「東京五輪音頭」など5曲が収録されていた。
ちょっと恥ずかしかったが、「チャンチキおけさ」を押してみた。
大気が澄んでいるため、CDなどで聴くよりも、よく響きわたる歌声が、這(は)うように吹いてくる風に乗ってながれた。
ひさしぶりに聴く美声であった。
この地で生まれた三波は、父親の商売が失敗し、13歳で上京した。
南條文若の芸名で浪曲師となったが、召集され、シベリアで4年間の収容所生活を体験した。
昭和32年、「チャンチキおけさ」でデビューし、いきなり大ヒットとなった。
以降の活躍は、はぶく。
こだわりたいのは「神さま」発言である。
三波の記憶では、36年春、関西のある地方の公演で、司会の宮尾たか志が「座長、今日のこのお客さまをあなたはどう思いますか」と尋ねた。
三波はとっさにこたえた。
「そりゃもう、ありがたい。お客さまは神さまのようです」
以来、三波といえば、この「神さま」発言が定番となった。
ことし4月、瀬戸内寂聴の日本経済新聞での連載「奇縁まんだら」で取りあげられたさい、三波はこう語ったという。
「ステージが天、客席は地、その間にいる絶対者こそがお客さま、それが神さまです」
続く。
通報
コメント
古トピの為、これ以上コメントできません
返信コメント
No.195 続き
11/10/26 23:48:09
>>194
「絶対者」というコトバに引っかかった。
無意識だろうが、その底には、シベリアで体験した、もうひとりの「絶対者」が屹立(きつりつ)していたはずである。
本名=ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。
スターリン(「鋼鉄の人」の意)である。
広大にひろがるユーラシア大陸の、東はカムチャツカ半島やハバロフスク、西はカスピ海の付近まで、赤や紺、黒色の丸い印が点在している。
赤は2万人以上、紺は1万人以上などとあり、その多くはシベリア鉄道沿いにあった。
旧厚生省が、終戦直後に作成した日本人収容所の分布図である。
抑留者は60万人から80万人とされるが、正確な数字は分からない。
「鋼鉄の人」が労働力不足をおぎなうために作らせたラーゲリ(収容所)には、日本人だけでなく、ドイツ人やロシア人の政治犯ら、3千万人から4千万人が収容された。
まさに「収容所群島」であった。
囚人を苦しめたのは、慢性的な食糧不足と寒さであった。
評論家、内村剛介の『生き急ぐ』によると、1日の食事は「砂糖9グラム、塩漬けのニシン22グラム、黒パン550グラム、茶5グラム」であった。
頻繁に汽車で移動させられた。
画家、香月泰男の「シベリア画集」には、亡霊のようにやせ細った囚人たちが、車両の鉄格子から顔をのぞかせた作品があった。
詩人の石原吉郎は、行間から屍臭(ししゅう)がただよってくる「葬式列車」を書いた。
続く