• No.1 田中めろん/メロロン

    25/09/28 19:12:07

    ☆小泉セツ(節子)の生涯
    1868年(慶応4年)生まれ。
    出雲松江藩の家臣小泉家の6人兄弟姉妹の次女。
    生まれて間もなく親戚の稲垣家の養女になる。稲垣家は小泉家より格下だったのでセツをオジョ(お嬢)と呼んだ
    幼少から物語が好きで昔話、民話、伝説などを聞いて育った
    セツは成績優秀であったが、稲垣家の没落で小学校卒業して進学できずに11歳で生家の小泉家の機織会社の織子で働く
    18歳で婿養子として士族の前田為二と結婚するが、小泉家の機織会社が倒産。為二は貧しさに耐えきれず1年足らずで失踪してしまい22歳で離婚。セツは稲垣から小泉の籍に戻る。失踪した為二と再会するものの悪態をつかれたセツは身投げも考えたが家族のことを考えてやめた
    1891年(明治24年)実父・湊が他界してたので小泉家もまた没落し困窮していたので家計を支えるために松江の英語教師のラフカディオ・ハーンの住み込み女中に。セツとハーンは「怪談話が好き」という共通点があり、すぐに惹かれあって結婚した。
    八雲の転勤で熊本市に転居。長男・一雄誕生
    1894年(明治27年)神戸市に転居。
    1896年(明治29年)兵庫県知事の承認を得てハーンは日本に帰化(のちの調査でイギリスと日本の二重国籍だったようだ)
    小泉家への「外国人入夫結婚」の願いが島根県知事に承認されて正式にハーンは「小泉八雲」となる。
    「八雲」は本人が決めたものではなく、セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けたという
    東京府牛込区市谷福久町(今の新宿区)に転居。
    セツは八雲の作品素材を探して提供。セツは英語はマスターできなかったが八雲の片言の日本語「ヘルンさん言葉」で素材の書物を読んで八雲に伝えて生涯彼の執筆を支えた。東京で子供3人(男子2人(巌、清)女子1人(寿々子))誕生
    次男・巌は稲垣家のセツの養母・トミの養子にした
    西大久保に転居。1902年ころから八雲の体調不良となる
    1904年(明治37年)八雲が狭心症で死去。
    八雲の遺言により遺産はすべてセツに譲られ西大久保の家や書斎を残すことができセツは裕福な暮らしができた
    1914年(大正3年)八雲との思い出をまとめた「思い出の記」が田辺隆次が著した「小泉八雲」に収められて出版
    1932年(昭和7年)64歳 脳溢血で死去。

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  • No.2 田中めろん/メロロン

    25/09/28 19:12:42

    ★小泉八雲の生涯(>>1 のセツの生涯と重複部分は省略)
    出生名 パトリック・ラフカディオ・ハーン
    1850年生まれ。父がイギリス人、母はギリシャ人。
    ギリシャのレフガタ島出身
    新聞社に就職してジャーナリストとなり次第に名声を高めていった。
    『古事記』の英訳版を読み1884年の万国博覧会に行ったことから日本に興味を持ち1890年にアメリカの出版社の通信員として来日
    通信員の契約を破棄して40歳で松江の英語教師となる
    松江・熊本・神戸・東京に移り住み、英語教師の仕事をしながら精力的に執筆活動を続けた。
    著名な著作物 「知られぬ日本の面影」(1894年)
    「骨董」(1902年) 「怪談」(1904年)
    1896年 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職
    1903年 東京帝国大学退職。早稲田大学の講師となる
    1904年、54歳 狭心症で死去。墓は雑司ヶ谷霊園にある
    ※八雲は16歳の時にカレッジの回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左眼に当たって失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっていた。

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