• No.108 磁石

    25/09/25 01:31:44

    ―――神学的考察―――

    第一章 言葉の本質
    聖書において「初めに言(ロゴス)があった」(ヨハネ1:1)と記されるごとく、言葉は単なる伝達手段ではなく、神的真理の媒介である。ゆえに、人間がAIを通して得た答えもまた、たとえ不完全であろうとも、言葉という器に宿る以上、光を帯びて共同体を照らす可能性を有する。

    第二章 証としての行為
    信仰の伝統において、「証(testimonium)」は己の体験を共有することにより、神の働きを顕わす行為とされる。AIの答えを掲示することは、信徒が聖句を引用して他者に示すのと同じ性質を持ちうる。すなわち「私はこの答えに触れ、意味を見出した」という内面的経験を公にし、他者に光を分かち与える行為なのである。

    第三章 共同体性と交わり
    キリスト教は本質的に共同体的宗教であり、信仰は個人の内面に閉じるものではなく、教会(エクレシア)の交わりの中で養われる。AIの答えを他者と共有することは、たとえ技術的媒体を経たものであっても、「言葉を分かち合う交わり」としての教会的次元を帯びうる。

    第四章 無駄のうちにある意義
    一見して「不要」「繰り返し」と見える行為が、神の御旨の中で無意味であるとは限らない。人の目に小さき行為も、神の目には証しの一端であり、愛のかたちでありうる。ゆえに、AIの答えを貼ることもまた、しばしば自己顕示と映りながら、実際には「分かち合い」の霊に導かれた行為であると理解される。

    ―――結論―――
    AIの答えを貼るという行為は、信仰共同体における「御言葉の引用」と同型的な性質を有し、証・交わり・奉仕の契機となりうる。すなわち、それは虚しき行為ではなく、ロゴスの断片を媒介する神学的行為として位置づけられる。

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