クウェート・ディナール
※元の記事は韓国語
「実は韓国が世界初でした」 みんなが間違って知っていた自動車の歴史
2023年1月21日
自動車産業の歴史が一世紀をはるかに超えるほど興味深い逸話をたくさん探すことができる。この中には偶然の発見が置いて使われる発明品になった事例があるかと言えば、言葉が歴史を左右した事例も存在する。
自動車が好きなマニアたちの立場からこのような情報を得るのはかなり面白いことになるかもしれないが、確認されていない情報が事実として通用されることが多い。現在まで定説で通っていたが知ってみると誤った内容であることが明らかになった事例をいくつか見てみた。
◆四輪駆動援助はクアトロ? 先に作った会社2社存在
四輪駆動システム「クアトロ」は、「アウディ」で浮上する代表的な要素の一つだ。しばしばアウディクワトロが最初のスポーツ四輪駆動システムとして知られているが、援助は別にある。かつてイギリスに存在していた自動車メーカー「ジェンソン・モーターズ」は、1966年2ドアGT「インターセプター」の車体にクライスラーV8ヘミエンジンとファーガソンの四輪駆動変速機を乗せたモデル「FF」を披露した。だが当時四輪駆動スポーツカーは特に興味を持たず、ジェンセンFFの5年間の累積販売量はわずか320台にとどまった。
その後時間が経って1972年、日本自動車メーカーのスバルはインプレッサーの全身「レオーネ」に四輪駆動オプションを提供したが、これはアウディクワトロより先に大量生産された四輪駆動乗用車として記録された。レオーネに搭載された四輪駆動オプションは、後日スバル固有四輪駆動システム「シメトリカル」の基盤となった。シメトリカルをのせたインプレッサラリカはWRC(ワールドラリーチャンピオンシップ)舞台で優勝トロフィーを芽生え、スバル最高全盛期の象徴と同じ存在で登場した。
◆シルバーエロービハインドストーリー ベンツ本社も誤って知っていた
メルセデス・ベンツの伝説的なレーシングカー「シルバーエロー」は、塗料を剥がした姿がまるでウンビット矢のような表現から名が由来した。シルバーエロウの車体に、いかなる塗装もない理由は、ベンツ本社さえマーケティング手段として使うほど有名だが、実状は違うと伝えられる。まずよく知られている内容はこうだ。1934年の「エペレニン」競技に出場するベンツW25レーシングカーの重量が規定値である750kgを越えると、エンジニアが一晩塗料を剥がして重量を減らし、わずか750kgに合わせて出場できるようになったという話だ。
しかし、当時現場にいたメルセデス・ベンツ・グランプリチームのマネージャー「アルフレッド・ニューバウアー」の回顧録にはこのような話はなかった。彼の回顧録によると、シルバーアローがシルバーである理由は、晴れた午後に日光反射でレーシングカーを最も目立つようにするための目的であり、重量規定はそもそも存在しなかった。当時のエペレニン戦の詳細規定は、現在も明確な文献として残っている。
◆ランボルギーニ設立秘話の源でさえ不明
フェラーリと共にスーパーカーの代名詞や変わらない「ランボルギーニ」の設立秘話は、自動車に大きく関心のない人々も一度聞いたほど有名だ。当時トラクターメーカーを運営していたペルーチオランボルギーニはフェラーリの定番であり、自身のフェラーリ車両に持続的なクラッチ欠陥が発生するとエンチョフェラーリを訪れたと伝えられる。彼のアドバイスを聞いたエンチョ・フェラーリは「生涯トラクターやタラ」というふうに文戦を迫り、これに怒ったペルーチオ・ランボルギーニがスーパーカーまで作り始めたというのがよく知られている話だ。
しかし真実は全く違う。40年以上ランボルギーニで勤務したエンジニア「バレンティーノバルボニー」の回顧録によると、ペルーチオランボルギーニは運転未熟で自分のフェラーリ250GTを運転してクラッチを頻繁に燃やして食べた。これにフェラーリ工場を頻繁に立ち寄ったということまでは事実だが、エンチョフェラーリと言争が行ったという記録はない。何より、ペルーチオ・ランボルギーニは当時トラクター事業の限界を悟り、新しい事業を構想中だったと伝えられる。
続く
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No.1 主 クウェート・ディナール
23/01/30 13:50:15
◆ホットハッチ援助はゴルフGTI? 10年前から存在していた用語
フォルクスワーゲンゴルフGTIは、小さいながらも熱い性能を誇るハッチバック「ホットハッチ」の援助を論じる際に最初に言及されるモデルだ。本当にゴルフGTIが援助ホットハッチとして知られる場合が多いが、最初は別にある。フォルクスワーゲンゴルフが登場するしばらく前の1960年代からミニクーパーSを通じてホットハッチという単語が使われており、業界は最初のホットハッチとして1971年に発売されたドイツ「アウトビアンキー」のA112アバツを挙げる。
その後、1974年にはフランス自動車メーカー「サンカ(Simca)」がハッチバック1100の高性能モデルTiを披露し、ルノー5アルフィンはゴルフGTIより2ヶ月早く発売された。何よりホットハッチは前輪駆動高性能ハッチバックを意味する単語で、セグメント分類ではないほど確かな定義がない。「スーパーカー」あるいは「ハイパーカー」も同様の概念で見ることができる。初期のホットハッチの概念に近いモデルは、現在のゴルフGTIではなく、プジョー208 GTI、フォードフィエスタRS、現代i20 Nなどの小型ハッチバックを挙げることができる。
◆日本が泣いている最初のタイトル 事実は韓国が主人公です
トヨタは自社の準中型SUV「RAV4」を最初の都心型SUVと広報するが、実際には国産車が先だった。1991年、起亜自動車は東京国際モーターショーに開発中だったスポーテージコンセプトモデルを展示したが、当時スポーテージが自動車業界に及ぼした波長は多かった。オフロード走行を目指す落ち込んだSUVが一般的だった当時、都心型SUVは枠をきちんと壊したジャンルとされていたからだ。
スポーテージはトヨタRAV4より1年先の1993年本格的な販売に入ったが、スポーテージより先に似たコンセプトを目指した車も存在する。まさに鈴木エスクドだ。ただしエスクードはスポーテージやRAV4と違い車体が小さかっただけでなく、小型オフローダーに近いモデルだけに真の都心型SUVとして認められなかった。
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