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<旧字体を使え>夫と義父が名付けに文句
23/04/22 10:54:38
今作は記事貼りじゃなくてネタバレ貼りに精を出してるんだ 疲れるだけだからやめたらいいのにチラ裏荒らします
23/07/07 14:33:40
>>1002 朝ドラ『らんまん』のモデル・牧野富太郎が語る、妻との結婚生活とは? (1) 大量の新種の植物を命名し、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎は、破天荒な人生を送ったことでも有名だ。朝ドラ『らんまん』では、神木隆之介さんが富太郎を、その妻・寿恵子を浜辺美波さんが演じている。二人はどんな結婚生活を送ったのか、実際に富太郎が語った文章から引用しよう(講談社学術文庫『牧野富太郎自叙伝』に一部改行を加えた)。 富太郎と寿衛子が結ばれるまで 私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃――私がまだ二十七、八歳の青年の頃でした。寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。 母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。 青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。仲人は石版印刷屋の親爺――というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。 結婚早々に持ち上がる就職と家計の問題 当時私は麹町三番町にあった同郷出身の若藤宗則という人の家の二階を間借していたのだが、こうして恋女房を得たのだから早速そこを引き揚げて根岸の御院殿跡にあった村岡という人の離れ屋を借り、ここで夫婦差し向いの愛の巣を営んだ。そうして私にはまだ多少の財産が残っていたので始終大学へ行って植物の研究をしていたが、翌二十四年ごろからはその若干の私の財産も残り少なになってしまったのです。 そこで二十四年から二十五年にかけて家政整理のために一たん帰郷したが、私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。 続く。 出典:YAHOOニュース(現代ビジネス)
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No.1002 鶴山公園
23/04/22 10:54:38
今作は記事貼りじゃなくてネタバレ貼りに精を出してるんだ
疲れるだけだからやめたらいいのにチラ裏荒らします
No.4099 誓いの言葉
23/07/07 14:33:40
>>1002
朝ドラ『らんまん』のモデル・牧野富太郎が語る、妻との結婚生活とは?
(1)
大量の新種の植物を命名し、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎は、破天荒な人生を送ったことでも有名だ。朝ドラ『らんまん』では、神木隆之介さんが富太郎を、その妻・寿恵子を浜辺美波さんが演じている。二人はどんな結婚生活を送ったのか、実際に富太郎が語った文章から引用しよう(講談社学術文庫『牧野富太郎自叙伝』に一部改行を加えた)。
富太郎と寿衛子が結ばれるまで
私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃――私がまだ二十七、八歳の青年の頃でした。寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。
母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。
青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。仲人は石版印刷屋の親爺――というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。
結婚早々に持ち上がる就職と家計の問題
当時私は麹町三番町にあった同郷出身の若藤宗則という人の家の二階を間借していたのだが、こうして恋女房を得たのだから早速そこを引き揚げて根岸の御院殿跡にあった村岡という人の離れ屋を借り、ここで夫婦差し向いの愛の巣を営んだ。そうして私にはまだ多少の財産が残っていたので始終大学へ行って植物の研究をしていたが、翌二十四年ごろからはその若干の私の財産も残り少なになってしまったのです。
そこで二十四年から二十五年にかけて家政整理のために一たん帰郷したが、私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。
続く。
出典:YAHOOニュース(現代ビジネス)
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