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波瑠(34)と高杉真宙(29)が結婚!
島津義久
21/02/14 18:33:32
でも6回出撃して、6回とも生きて帰ってきたのが自慢らしい その度に上の人から死ぬのが怖いのか、お前の任務は特攻だ。と殴られていたみたいw 最後は臆病者、非国民の恥さらしだと言われて、燃料を半分にされて片道切符で行かされたけどそれでと帰還したんだってw
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21/02/14 18:36:02
うちは祖父が戦争行って帰ってきたけど、何も言わなかったな。母も聞いたことないと言ってた。
返信
2件
21/02/14 18:36:15
すんごい生命力 ていうかなんで帰ってこれるの?運が良すぎるの?
1件
21/02/14 18:39:36
うちのじい様は戦地でヘマして、鍋でも洗ってこい!叱られてと鍋洗いしてたら部隊が襲撃にあい、鍋洗ってたら命拾いしたらしい。
21/02/14 18:40:42
>>2 フィリピンかどこかに行かされてたけど、特攻を一切せず、相手戦艦を爆撃もせず、下から爆撃されないところでずっといたらしいw 戦果も0らしいわw ただ飛行機で飛んでただけらしいw
3件
21/02/14 18:44:35
>>4ダメじゃん 笑 (特攻隊員としてはね) でも 生きてるのが1番いいよ。
21/02/14 18:48:15
すご!うん。生きてる事が大事だよ 私の祖母の元旦那さんはシベリアで亡くなったみたい そして、元旦那さんの弟と再婚して母が産まれた。 弟と再婚とか考えられないけど当時は良くある事らしい 母は3姉妹だけど、1番上の叔母さんだけ元旦那さんの子供。
21/02/14 18:48:46
戦闘機パイロットって超エリートよね 大変な時代を生き抜いて日本を再興されたんですね
21/02/14 18:52:09
時代よな。生きてくれてよかった。うちのじさまはシベリア抑留から帰ってきた人なんだけど、その事は一切話してくれなかったな。過酷な体験だったんだろうな、と子供心に思ってた
21/02/14 18:52:54
知覧の特攻隊の博物館に行ったことがあるんだけど、サイパンのバンザイクリフでも思ったけど、生きることは恥ずかしいことだと洗脳されていた当時の人たちに心から同情した。 ひいおじいさんが恥を忍んで帰還したことであなたが存在していることにぜひ感謝して。 私も感謝する。
21/02/14 18:53:53
私の祖父は隊列組んで歩いてた時猛烈に催して こっそり隊を抜けて用を足してたら 雪の下に導火線だか電線だかを見つけた 一瞬報告するかしないか迷ったけど 死ぬよりは指導のほうが「ちっことましじゃ」と思って報告した 結果部隊全滅を免れて褒められたと言ってた 何かの線を見つけたところから何があって褒賞貰うに至ったのかは 「一兵卒にはわからん」という話を私が小さい頃にしてくれた
21/02/14 18:54:47
うちのじいさんは捕虜としてシベリアに抑留されたけど、炊事係になったから盗み食いできてお腹は空かなかったし、そのあと肺炎になったら手厚く看護してもらえて助かったって笑いながら言ってた。笑 肺炎のせいで仲間より帰国が遅れたけど、洗脳状態みたいになっちゃってるから出迎えの時、暴れても抑えられるようにとにかく若い男をたくさん連れてくるよう言われたみたい。 背中の銃弾の跡をたまに見せてもらってたなー。
21/02/14 18:55:18
>>1 うちの亡くなったじいちゃんも、ほとんど戦争のことしゃべらなかったみたい。戦地に直接っていうよりは鉄道の保線の仕事だったらしいけど、それでも戦局が不利になってきた頃はそれなりのことさせられたっぽいけど、戦地で散った仲間を思うといたたまれないらしくて話ししかけても途中で口つぐむってことがほとんどだったらしい。 ようやく口開いたのは、戦時中の話を語り継いでいこうと本の出版があって、地元の戦争体験者に話聞きたと取材が来た時、その時が最初で最後だったみたい。それから間もなく91で亡くなったよ。本人も薄々感じていて最後と思って話してくれたのかも。 人によるよね。
21/02/14 18:56:30
>>1 それが日本男大和魂 語る事はならず
21/02/14 18:58:36
当時は色々言われて大変だっただろうね…。 でも生き帰った事が重要だよ。 うちのじぃさんは海軍で普段は食事作り担当だったって。 海軍カレーの元祖はじぃちゃんが作った!って言っていたな…一度も作ってもらった事ないけど(笑) 戦闘で両隣がやられたけどじぃさんは無事だった。
21/02/14 19:00:41
なんかのドラマの話じゃん
21/02/14 19:01:25
ひいおじいちゃん凄いね 鹿児島の知覧の特攻隊会館は訪れる価値ある場所だと思う 興味がある人は是非行ってみてほしい
21/02/14 19:02:32
今の大学生くらいの子たちだよ そんな人たちのおかげで今の日本がある ありがとうございます
21/02/14 19:04:28
私の父方のおじいちゃんもシベリアから帰ってきた人だよ。放射線技師の資格を持ってたらしい。おばあちゃんからの話で、直接は聞いたことない。祖父母も実父も亡くなってしまったから詳細はもう聞けない。 無理やりにとは思わないけど、話を聞く機会がある人はその時間を大切にしたほうが良いと切に思うよ。
21/02/14 19:05:39
ひいおじいさん、当時は辛い思いしただろうけど命があって何よりだよ。私もおじいちゃんやおばあちゃんにもっと戦争の体験談を聞いておけば良かったって最近になって後悔してる。生きてる時はあまり聞いてはいけないことなのかと思って、聞くのに勇気が出なかった。
21/02/14 19:05:48
こういう話には w 使わないで欲しい。 全然笑えないし不快。
21/02/14 19:06:43
じいちゃんが真面目に仕事してたら主はこの世にいないのかな。不思議だね。
21/02/14 19:09:20
>>18 そんな時代に放射線技師の資格なんかあるか
21/02/14 19:11:21
うちの曾祖父も戦争行ったけど 一緒に行った仲間はほぼ全員亡くなって数人だけ帰国したらしい。 仲間の遺骨とかないから現地の小さな石を靴に隠して帰国する時に持ち帰り仲良かった兵隊さんの遺族に渡したんだって。 10年前に亡くなったけど最後のほうは認知症で、でも戦地の記憶は鮮明でよく話してくれた。 祖母は庭に穴ほって空襲警報なったら子供は村のちゃんとした防空壕に避難させたけど自分は庭の穴に入って自宅が燃えたらすぐ消火できるように身構えていたとか。 冷静に考えたら爆弾落ちたら消火なんて出来ないし、庭の穴なんて爆弾落ちたら何の役にもたたないと思うんだけど それだけ必死だったんだよね。
21/02/14 19:11:42
私の祖父は、全然体調良好なのになぜか肺にかげが写って肺病の疑いで戦争には行かなかったけど、長崎に原爆が落ちたときケガや火傷をした人がたくさん列車で運ばれてきて、若い男がいなかったから救護に行って列車から下ろすときに皮がずるずるして大変だったとよく話してくれた。もう亡くなったけどもっと話を聞いておけば良かったな。
21/02/14 19:13:36
私の祖父は満州で汽車の運転士してたよ。 国鉄職員で、腕の良い運転士だったから戦地には行かなくて済んだんだって。
21/02/14 19:15:27
祖父はギリギリ戦争に行ってないけど、祖父の兄が戦死してる。海軍だったみたい 写真とか日記みたいなのも残ってて、何書いてあるか読めないからわからないんだけど、弟(祖父)に宛てた手紙も残っててそれ見ると涙が出てくるよ。写真もまだ幼い顔しててその辺の高校生や大学生と変わらない顔つきで胸が痛くなった。いつか靖国参拝しなきゃなって思ってる
21/02/14 19:16:13
>>25うちのじいちゃんも満州鉄道がどーたらって言ってた!国鉄職員だったから同じなのかな?
21/02/14 19:20:14
>>27 そうかもしれないね! 同じ時期に祖父同士が満州在住だったのかもしれない…世間は狭いなぁ!
21/02/14 19:21:28
>>22 放射線技師が認定されたのは昭和43年みたいだよ
21/02/14 19:29:03
>>17 本当だね。 うちの高校生の子供たちは私の祖父(子供から見たら曾祖父)から話を聞いてたから、少しは分かるのかなって思う。 中には老害もいるけど、やっぱり大事にしないといけないね。
21/02/14 19:32:28
生きて帰ってくださってありがとうございます。だね。 自分の身内にも稀代の愚策と言われたインパール作戦から帰ってきたじいちゃんが居る。 インパールのテレビ観ると涙出る。
21/02/14 19:36:40
私の祖父はスマトラ島に行ってたってことを母から聞いたけど、今度詳しく教えて貰おうかな。戦争を知る人がいなくなるのが悲しいな。
21/02/14 19:38:28
それって、岡田くんの映画じゃ? 燃料の話もあったし、臆病者だと言われてたよね。
21/02/14 19:39:46
wを付けるな…立派な爺さんだよ。
21/02/14 19:43:33
>>10ごめん、ちっことましじゃってどういう意味?
21/02/14 19:44:26
出撃しても生き残っても辛かったでしょうね。 お疲れさまでした。
21/02/14 19:47:02
>>22 ごめん、子供の頃におばあちゃんから聞いた話だから。レントゲン技師だったのかな?これもまだないっけ?戦後にシベリアから帰ってきてからの話かもしれない。なんにしろそっち方面でかなり重宝されたって。 また聞きでうろ覚えだとこうなるんだよ。 アンカーもとでも書いたけど、話を聞ける人はその機会を大事にして欲しいよ。
ぴよぴよ
21/02/14 19:48:14
>>38 レントゲン技師も無いから(笑)
21/02/14 19:49:46
私のじぃちゃんはパラオで戦ってたんだよ。 小学生の時戦争体験を聞く宿題で事細かに書いてくれた。 腐ったものを食べるのは当たり前。 飢えと蛆に苦しめられたと。 だから死ぬまで果物は腐ったくらいが1番旨いって言ってた。 95歳大往生で亡くなって、遺言通り、日の丸に仲間からの寄せ書きがかいてある大きな旗を棺に入れました。
21/02/14 19:50:01
21/02/14 19:50:49
爺ちゃんも婆ちゃんも戦争の話は一切してくれなかった。 教えたいけど。ごめんね。思い出したくないし、知らなくていいよ。知らなくていい…って泣き出しちゃって。 元彼はイラク戦争に行った。 無事に帰ってきてくれたけど、精神ボロボロで入院してそのままアメリカに帰った。 お話していた仲間が、友達が、目の前で頭撃ち抜かれてわけもわからないまま笑った顔のまま死んだって。 辛くて辛くて精神崩壊(PTSD?)して、別人のようになっちゃったよ。
21/02/14 19:52:32
うちのじいさんは中国で戦死 一緒に行って生き残った方が亡くなった方々、祖父の骨も含め まとめて持ち帰ってきてくれたそうだ それを遺族みんなで分けて各自お墓にいれた。 帰ってきたら船を買い、漁師になると言って戦地に旅立ったそうだから無念だったろうなと思う
21/02/14 19:54:20
うちの曾祖父さんは医者で、遠くに派遣されそうになったけどコネで広島に派遣。原爆の2日前に東京に戻ってきてたすかったらしい
21/02/14 19:54:35
>>4 うちの祖父はフィリピン沖で撃沈され部隊全滅。仲間と共に南の海で眠ってる。 祖母はまだ小さかった父を苦労して育てあげた。 主のひい祖父さんは生きて帰ってこれて家族は心底喜んだと思う。立派なひい祖父さんだよ。
21/02/14 19:54:57
出口のない海 って言う、海老蔵が主役の人間魚雷の映画を観て、あまりの残酷さに衝撃を受けたの思い出した。
21/02/14 19:55:04
みんな、特攻はだめだ。 ハングレーとかはやつらはガチでどうしようもない。 みんなは特攻はだめ。 守備はほどかないでやろう!!
21/02/14 19:56:08
>>47主のおじいさんの意味ではないよ?ハングレーの意味ね?
21/02/14 19:56:48
自分の祖父が~って言ってる人達っていったいいくつなの? アラ還?(笑)
9件
21/02/14 19:57:08
母方の祖父が元近衛兵
1件~50件 ( 全105件)
*コメント欄のパトロールでYahoo!ニュースのAIを使用しています
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No.1 ルイス・フロイス
21/02/14 18:36:02
うちは祖父が戦争行って帰ってきたけど、何も言わなかったな。母も聞いたことないと言ってた。
返信
2件
No.2 豊臣秀長
21/02/14 18:36:15
すんごい生命力
ていうかなんで帰ってこれるの?運が良すぎるの?
返信
1件
No.3 山本勘助
21/02/14 18:39:36
うちのじい様は戦地でヘマして、鍋でも洗ってこい!叱られてと鍋洗いしてたら部隊が襲撃にあい、鍋洗ってたら命拾いしたらしい。
返信
No.4 主 島津義久
21/02/14 18:40:42
>>2
フィリピンかどこかに行かされてたけど、特攻を一切せず、相手戦艦を爆撃もせず、下から爆撃されないところでずっといたらしいw
戦果も0らしいわw
ただ飛行機で飛んでただけらしいw
返信
3件
No.5 豊臣秀長
21/02/14 18:44:35
>>4ダメじゃん 笑 (特攻隊員としてはね)
でも 生きてるのが1番いいよ。
返信
No.6 本多小松
21/02/14 18:48:15
すご!うん。生きてる事が大事だよ
私の祖母の元旦那さんはシベリアで亡くなったみたい
そして、元旦那さんの弟と再婚して母が産まれた。
弟と再婚とか考えられないけど当時は良くある事らしい
母は3姉妹だけど、1番上の叔母さんだけ元旦那さんの子供。
返信
No.7 上杉謙信
21/02/14 18:48:46
戦闘機パイロットって超エリートよね
大変な時代を生き抜いて日本を再興されたんですね
返信
No.8 宮本武蔵(強い)
21/02/14 18:52:09
時代よな。生きてくれてよかった。うちのじさまはシベリア抑留から帰ってきた人なんだけど、その事は一切話してくれなかったな。過酷な体験だったんだろうな、と子供心に思ってた
返信
No.9 石田三成
21/02/14 18:52:54
知覧の特攻隊の博物館に行ったことがあるんだけど、サイパンのバンザイクリフでも思ったけど、生きることは恥ずかしいことだと洗脳されていた当時の人たちに心から同情した。
ひいおじいさんが恥を忍んで帰還したことであなたが存在していることにぜひ感謝して。
私も感謝する。
返信
No.10 津軽為信
21/02/14 18:53:53
私の祖父は隊列組んで歩いてた時猛烈に催して
こっそり隊を抜けて用を足してたら
雪の下に導火線だか電線だかを見つけた
一瞬報告するかしないか迷ったけど
死ぬよりは指導のほうが「ちっことましじゃ」と思って報告した
結果部隊全滅を免れて褒められたと言ってた
何かの線を見つけたところから何があって褒賞貰うに至ったのかは
「一兵卒にはわからん」という話を私が小さい頃にしてくれた
返信
1件
No.11 毛利元就
21/02/14 18:54:47
うちのじいさんは捕虜としてシベリアに抑留されたけど、炊事係になったから盗み食いできてお腹は空かなかったし、そのあと肺炎になったら手厚く看護してもらえて助かったって笑いながら言ってた。笑
肺炎のせいで仲間より帰国が遅れたけど、洗脳状態みたいになっちゃってるから出迎えの時、暴れても抑えられるようにとにかく若い男をたくさん連れてくるよう言われたみたい。
背中の銃弾の跡をたまに見せてもらってたなー。
返信
No.12 成田甲斐
21/02/14 18:55:18
>>1
うちの亡くなったじいちゃんも、ほとんど戦争のことしゃべらなかったみたい。戦地に直接っていうよりは鉄道の保線の仕事だったらしいけど、それでも戦局が不利になってきた頃はそれなりのことさせられたっぽいけど、戦地で散った仲間を思うといたたまれないらしくて話ししかけても途中で口つぐむってことがほとんどだったらしい。
ようやく口開いたのは、戦時中の話を語り継いでいこうと本の出版があって、地元の戦争体験者に話聞きたと取材が来た時、その時が最初で最後だったみたい。それから間もなく91で亡くなったよ。本人も薄々感じていて最後と思って話してくれたのかも。
人によるよね。
返信
No.13 最上義光
21/02/14 18:56:30
>>1
それが日本男大和魂
語る事はならず
返信
No.14 小早川隆景
21/02/14 18:58:36
当時は色々言われて大変だっただろうね…。
でも生き帰った事が重要だよ。
うちのじぃさんは海軍で普段は食事作り担当だったって。
海軍カレーの元祖はじぃちゃんが作った!って言っていたな…一度も作ってもらった事ないけど(笑)
戦闘で両隣がやられたけどじぃさんは無事だった。
返信
No.15 徳川家康
21/02/14 19:00:41
なんかのドラマの話じゃん
返信
No.16 毛利勝永
21/02/14 19:01:25
ひいおじいちゃん凄いね
鹿児島の知覧の特攻隊会館は訪れる価値ある場所だと思う
興味がある人は是非行ってみてほしい
返信
1件
No.17 足軽(弓)
21/02/14 19:02:32
今の大学生くらいの子たちだよ
そんな人たちのおかげで今の日本がある
ありがとうございます
返信
1件
No.18 明智光秀
21/02/14 19:04:28
私の父方のおじいちゃんもシベリアから帰ってきた人だよ。放射線技師の資格を持ってたらしい。おばあちゃんからの話で、直接は聞いたことない。祖父母も実父も亡くなってしまったから詳細はもう聞けない。
無理やりにとは思わないけど、話を聞く機会がある人はその時間を大切にしたほうが良いと切に思うよ。
返信
1件
No.19 長宗我部盛親
21/02/14 19:05:39
ひいおじいさん、当時は辛い思いしただろうけど命があって何よりだよ。私もおじいちゃんやおばあちゃんにもっと戦争の体験談を聞いておけば良かったって最近になって後悔してる。生きてる時はあまり聞いてはいけないことなのかと思って、聞くのに勇気が出なかった。
返信
No.20 宮本武蔵(強い)
21/02/14 19:05:48
こういう話には w 使わないで欲しい。
全然笑えないし不快。
返信
No.21 丹羽長秀
21/02/14 19:06:43
じいちゃんが真面目に仕事してたら主はこの世にいないのかな。不思議だね。
返信
No.22 徳川家康
21/02/14 19:09:20
>>18
そんな時代に放射線技師の資格なんかあるか
返信
3件
No.23 尼子晴久
21/02/14 19:11:21
うちの曾祖父も戦争行ったけど
一緒に行った仲間はほぼ全員亡くなって数人だけ帰国したらしい。
仲間の遺骨とかないから現地の小さな石を靴に隠して帰国する時に持ち帰り仲良かった兵隊さんの遺族に渡したんだって。
10年前に亡くなったけど最後のほうは認知症で、でも戦地の記憶は鮮明でよく話してくれた。
祖母は庭に穴ほって空襲警報なったら子供は村のちゃんとした防空壕に避難させたけど自分は庭の穴に入って自宅が燃えたらすぐ消火できるように身構えていたとか。
冷静に考えたら爆弾落ちたら消火なんて出来ないし、庭の穴なんて爆弾落ちたら何の役にもたたないと思うんだけど
それだけ必死だったんだよね。
返信
No.24 井伊直虎
21/02/14 19:11:42
私の祖父は、全然体調良好なのになぜか肺にかげが写って肺病の疑いで戦争には行かなかったけど、長崎に原爆が落ちたときケガや火傷をした人がたくさん列車で運ばれてきて、若い男がいなかったから救護に行って列車から下ろすときに皮がずるずるして大変だったとよく話してくれた。もう亡くなったけどもっと話を聞いておけば良かったな。
返信
No.25 直江兼続
21/02/14 19:13:36
私の祖父は満州で汽車の運転士してたよ。
国鉄職員で、腕の良い運転士だったから戦地には行かなくて済んだんだって。
返信
1件
No.26 最上義光
21/02/14 19:15:27
祖父はギリギリ戦争に行ってないけど、祖父の兄が戦死してる。海軍だったみたい
写真とか日記みたいなのも残ってて、何書いてあるか読めないからわからないんだけど、弟(祖父)に宛てた手紙も残っててそれ見ると涙が出てくるよ。写真もまだ幼い顔しててその辺の高校生や大学生と変わらない顔つきで胸が痛くなった。いつか靖国参拝しなきゃなって思ってる
返信
No.27 一条兼定
21/02/14 19:16:13
>>25うちのじいちゃんも満州鉄道がどーたらって言ってた!国鉄職員だったから同じなのかな?
返信
2件
No.28 直江兼続
21/02/14 19:20:14
>>27
そうかもしれないね!
同じ時期に祖父同士が満州在住だったのかもしれない…世間は狭いなぁ!
返信
No.29 前田利家
21/02/14 19:21:28
>>22
放射線技師が認定されたのは昭和43年みたいだよ
返信
No.30 浅井長政
21/02/14 19:29:03
>>17
本当だね。
うちの高校生の子供たちは私の祖父(子供から見たら曾祖父)から話を聞いてたから、少しは分かるのかなって思う。
中には老害もいるけど、やっぱり大事にしないといけないね。
返信
No.31 あんみつ
21/02/14 19:32:28
生きて帰ってくださってありがとうございます。だね。
自分の身内にも稀代の愚策と言われたインパール作戦から帰ってきたじいちゃんが居る。
インパールのテレビ観ると涙出る。
返信
No.32 本多正信
21/02/14 19:36:40
私の祖父はスマトラ島に行ってたってことを母から聞いたけど、今度詳しく教えて貰おうかな。戦争を知る人がいなくなるのが悲しいな。
返信
No.33 長野業正
21/02/14 19:38:28
それって、岡田くんの映画じゃ?
燃料の話もあったし、臆病者だと言われてたよね。
返信
No.34 高橋紹運
21/02/14 19:39:46
wを付けるな…立派な爺さんだよ。
返信
No.35 高坂昌信
21/02/14 19:43:33
>>10ごめん、ちっことましじゃってどういう意味?
返信
1件
No.36 蒲生氏郷
21/02/14 19:44:26
出撃しても生き残っても辛かったでしょうね。
お疲れさまでした。
返信
No.37 明智光秀
21/02/14 19:47:02
>>22
ごめん、子供の頃におばあちゃんから聞いた話だから。レントゲン技師だったのかな?これもまだないっけ?戦後にシベリアから帰ってきてからの話かもしれない。なんにしろそっち方面でかなり重宝されたって。
また聞きでうろ覚えだとこうなるんだよ。
アンカーもとでも書いたけど、話を聞ける人はその機会を大事にして欲しいよ。
返信
No.38
No.39 最上義光
21/02/14 19:48:14
>>38
レントゲン技師も無いから(笑)
返信
1件
No.40 下間頼廉
21/02/14 19:49:46
私のじぃちゃんはパラオで戦ってたんだよ。
小学生の時戦争体験を聞く宿題で事細かに書いてくれた。
腐ったものを食べるのは当たり前。
飢えと蛆に苦しめられたと。
だから死ぬまで果物は腐ったくらいが1番旨いって言ってた。
95歳大往生で亡くなって、遺言通り、日の丸に仲間からの寄せ書きがかいてある大きな旗を棺に入れました。
返信
No.41 下間頼廉
21/02/14 19:50:01
私のじぃちゃんはパラオで戦ってたんだよ。
小学生の時戦争体験を聞く宿題で事細かに書いてくれた。
腐ったものを食べるのは当たり前。
飢えと蛆に苦しめられたと。
だから死ぬまで果物は腐ったくらいが1番旨いって言ってた。
95歳大往生で亡くなって、遺言通り、日の丸に仲間からの寄せ書きがかいてある大きな旗を棺に入れました。
返信
No.42 古田織部
21/02/14 19:50:49
爺ちゃんも婆ちゃんも戦争の話は一切してくれなかった。
教えたいけど。ごめんね。思い出したくないし、知らなくていいよ。知らなくていい…って泣き出しちゃって。
元彼はイラク戦争に行った。
無事に帰ってきてくれたけど、精神ボロボロで入院してそのままアメリカに帰った。
お話していた仲間が、友達が、目の前で頭撃ち抜かれてわけもわからないまま笑った顔のまま死んだって。
辛くて辛くて精神崩壊(PTSD?)して、別人のようになっちゃったよ。
返信
No.43 山県昌景
21/02/14 19:52:32
うちのじいさんは中国で戦死
一緒に行って生き残った方が亡くなった方々、祖父の骨も含め まとめて持ち帰ってきてくれたそうだ
それを遺族みんなで分けて各自お墓にいれた。
帰ってきたら船を買い、漁師になると言って戦地に旅立ったそうだから無念だったろうなと思う
返信
No.44 ルイス・フロイス
21/02/14 19:54:20
うちの曾祖父さんは医者で、遠くに派遣されそうになったけどコネで広島に派遣。原爆の2日前に東京に戻ってきてたすかったらしい
返信
No.45 風魔小太郎(強い)
21/02/14 19:54:35
>>4
うちの祖父はフィリピン沖で撃沈され部隊全滅。仲間と共に南の海で眠ってる。
祖母はまだ小さかった父を苦労して育てあげた。
主のひい祖父さんは生きて帰ってこれて家族は心底喜んだと思う。立派なひい祖父さんだよ。
返信
No.46 武者小路実篤
21/02/14 19:54:57
出口のない海 って言う、海老蔵が主役の人間魚雷の映画を観て、あまりの残酷さに衝撃を受けたの思い出した。
返信
No.47 匿名
21/02/14 19:55:04
みんな、特攻はだめだ。
ハングレーとかはやつらはガチでどうしようもない。
みんなは特攻はだめ。
守備はほどかないでやろう!!
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No.48 匿名
21/02/14 19:56:08
>>47主のおじいさんの意味ではないよ?ハングレーの意味ね?
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No.49 浅井長政
21/02/14 19:56:48
自分の祖父が~って言ってる人達っていったいいくつなの?
アラ還?(笑)
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No.50 森力丸
21/02/14 19:57:08
母方の祖父が元近衛兵
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