日本学術会議、大学に所属もしていないのに30年以上も会員をやっていた共産党員が過去にいた

  • なんでも
  • 斎藤朝信
  • 20/10/12 11:42:25

「日本学術会議 首相、『6人任命せず』は当然」 ─ 屋山太郎

会長・政治評論家 屋山太郎

 1980年代の学術会議はまるで共産党の運動体だった。定員数は同じ210人。これを30委員会に振り分けるから一委員会7人ずつである。会員は学会に加わっている人の選挙。この中で常に選ばれる人物に福島要一という人物がいた。彼は第5部(原子力関連の委員会)に属していたが他の6人は福島の能弁に誰も反論できなかった。その様を見て桑原武夫氏(京都大フランス文学)がある雑誌に「3人で210人を支配する方法」という皮肉な随筆を書いた。桑原氏によるとこの委員会は最初7人全員が参加していたが、福島氏が一日中喋っているから嫌気がさして、次回は3人になる。結局福島氏に2人は説得されて部会一致の採決をしてしまう。学術会議は50年と67年には「戦争に関わる学問には協力しない」と宣言した。一連の運動は共産党の行動方針そのもので、改善策として人選のやり方を全く変えることにした。福島要一氏は農水省の出身で、共産党系学者に号令して毎回、当選してきた。この農業経済学者が日本の原発政策を主導したのである。加藤寛氏(慶大教授)の提案で投票は学会員たちだけにし、会員を選出する方法に改めた。

http://www.jfss.gr.jp/article/1334

◇福島要一(ふくしま よういち)(1907~1989)
略歴:1907年 東京に生まれる。旧制第一高等学校を経て 1934 年東京帝国大学農学部農学科を卒業。1934年 より 39年まで農林省農事試験場に勤務し、その後1939年 中国にわたり、1943年まで北京大使館の農政班に勤める。その後帰国し農林省の農事試験場農業気象部に勤め、1947年 に農林省統計調査部作物報告課長となり、1949年 辞任。同年日本学術会議会員となり 1985年 まで 36年間活動した。

<福島文庫解説> 相原昭夫(全国農業教育研究会)
福島要一先生は、1949 年農林省を辞任後、生涯を在野で通した。その業績は、学者・研究者としてよりも啓蒙家としてのものが大きい。研究室を持たず、同僚も弟子もいないという学問環境の中にあって、啓蒙家としての福島先生の遺産は多くの著作と大量の資料である。
https://i.imgur.com/dutoNkM.jpg

  • 0 いいね

利用ルール・禁止事項をご確認ください
誹謗中傷、個人情報、プライバシーを侵害する投稿は禁止しています。
また誹謗中傷においては、法改正により投稿者の情報開示について簡易な裁判手続きが導入されております。

古トピの為これ以上コメントできません

ママ達の声投稿されたコメントを掲載しています

画像表示ON・OFF

    • 1
    • 後藤又兵衛
    • 20/11/15 03:26:17

    安倍さんを散々「お友達」と揶揄し批判していた当人の共産党が、露骨なまでの「お友達擁護」を繰り返していることが明らかになった時点でもはや共産党の負け。

    • 0
※コメント欄のパトロールでYahoo!ニュースのAIを使用しています

新しいトークテーマを作ろう

子育てや家事、旦那に関する悩み相談、
TV、芸能人に関する雑談など何でもOK!

トピックランキング

もっと見る

コミュニティカテゴリ