• No.2 秋田犬

    17/09/22 19:23:12

    (>>1の続き)

     KEDOが活動を止め、北朝鮮が、核関連施設の凍結をやめると言い、IAEA査察官を追放するに及んだ、2002年、2度目の危機が生じた。
     懸案はまたしても、北朝鮮がウラン濃縮を続けていたこと。そして我々は、再び、対話による事態打開の途(みち)を選びます。
     KEDO創設メンバーだった日米韓3国に、北朝鮮と、中国、ロシアを加えた、六者会合が始まります。2003年、8月でした。
     その後、2年、曲折の後、2005年の夏から秋にかけ、六者は一度合意に達し、声明を出すに至ります。
     北朝鮮は、全ての核兵器、既存の核計画を放棄することと、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)と、IAEAの保障措置に復帰することを約束した。
     その更に2年後、2007年の2月、共同声明の実施に向け、六者がそれぞれ何をすべきかに関し、合意がまとまります。
     北朝鮮に入ったIAEAの査察団は、寧辺(ヨンビョン)にあった、核関連施設の閉鎖を確認、その見返りとして、北朝鮮は、重油を受け取るに至るのです。
     一連の過程は、今度こそ、粘り強く対話を続けたことが、北朝鮮に行動を改めさせた、そう思わせました。
     実際は、どうだったか。
     六者会合の傍ら、北朝鮮は2005年2月、我々は、既に核保有国だと、一方的に宣言した。
     さらに2006年の10月、第1回の核実験を、公然、実施した。
     2度目の核実験は、2009年。結局北朝鮮は、この年、再び絶対に参加しないと述べた上、六者会合からの脱退を表明します。
     しかもこの頃には、弾道ミサイルの発射を、繰り返し行うようになっていた。

     議長、同僚の皆様、国際社会は北朝鮮に対し、1994年からの十有余年、最初は枠組み合意、次には六者会合によりながら、辛抱強く、対話の努力を続けたのであります。
     しかし我々が思い知ったのは、対話が続いた間、北朝鮮は、核、ミサイルの開発を、諦めるつもりなど、まるで、持ち合わせていなかったということであります。
     対話とは、北朝鮮にとって、我々を欺き、時間を稼ぐため、むしろ最良の手段だった。
     何よりそれを、次の事実が証明します。
     すなわち1994年、北朝鮮に核兵器はなく、弾道ミサイルの技術も、成熟に程遠かった。それが今、水爆と、ICBMを手に入れようとしているのです。
     対話による問題解決の試みは、一再ならず、無に帰した。
     何の成算あって、我々は三度、同じ過ちを繰り返そうというのでしょう。
     北朝鮮に、全ての核、弾道ミサイル計画を、完全な、検証可能な、かつ、不可逆的な方法で、放棄させなくてはなりません。
     そのため必要なのは、対話ではない。圧力なのです。

    (引用ここまで)

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  • No.7

    ぴよぴよ

  • No.8 秋田犬

    17/09/22 19:59:42

    >>1 - >>2 の要約

    北朝鮮は「核不拡散条約」に加盟してたのにコッソリ核開発していた
     ↓
    バレる(1990年代前半)
     ↓
    対話
     ↓
    「米朝枠組み合意」が成立(1994年)
    北朝鮮が核兵器開発やめる見返りに、原子炉2基+重油 数10万トン援助してもらって、北朝鮮にエネルギー開発機構をつくる
    核不拡散条約に加盟してた色んな国が北朝鮮のエネルギー開発機構に協力
    日本も10億ドルの無利息資金の貸与を約束し、その内の約40%(4億ドル)の貸与を実施
     ↓
    でも北朝鮮は隠れて核開発続ける
     ↓
    バレる(2002年)
     ↓
    対話(2003年)
     ↓
    「六者会合」が合意(2005年)
    北朝鮮は、全ての核兵器、既存の核計画を放棄することを約束
     ↓
    でも北朝鮮は隠れて核開発続ける
     ↓
    北朝鮮が公然と核実験を実施(2006年)
    「核不拡散条約」の脱退を一方的に宣言
    この頃には、弾道ミサイルの発射を、繰り返し行うようになっていた

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