• No.1 かぼちゃプリン

    17/09/12 20:19:49

    【のむらえいぞう】野村栄三
     広島への原爆投下時、爆心地から約170メートルほどしか離れていない地点にいたにも関わらず生き延びた人物。


    以下、https://ameblo.jp/kinshisho/entry-11311791002.htmlより引用

     爆心地となった島病院から約170m離れた場所に燃料会館(当時)は位置していました。ほぼ爆心地付近です。
     当日、この燃料会館では37名が出勤しており、職員の一人である野村英三氏(当時47歳)は当日に限って課長が持ってくるはずの書類がなく、女子職員に持ってきてもらおうかと頼もうとするも忙しそうだったので自ら書類を取りに金庫が置かれていた地下室に下りていきました。まさか、これが運命の分かれ目になろうとは。
     地下室で書類を探していたとき、突然上でドーンという物凄い音がしたそうで、同時に電灯が消え地下室は真っ暗、そのとき頭に小石のようなものが2、3当たったらしく、頭を触ると出血していたそうで、他は問題ないか身体を動かすと何の問題もなく軽傷とわかって何があったのかと階段を上がろうとすると階段の状態がなく板切れや瓦や砂などがごちゃごちゃに混ざっているかのような感触だったそうです。 
     そして何か柔らかな感触を感じてそっと触るとすぐさま人間だとわかったそうで、半分くらい砂に埋もれているような感じだったと言います。大急ぎで抱え起こして声をかけたりしてみるも既に事切れていたそうで、途端に身体が震えてきたそうです。
     
     やがて紆余曲折を経て気が付いたときには1階に立っており、外は一寸先も見えない闇の世界だったと野村氏は後に語っています。爆心地付近で生き残ったのは野村氏を含め極僅かなため証言は非常に少ないのですが、やはり野村氏と共通しているのは一寸先も見えない闇の世界だったと証言していることが挙げられます。
     
     当日燃料会館にいた職員37名のうち、29名がその場で絶命、野村氏を含む男女4名ずつ計8名が脱出するも野村氏を除いてその後行方不明となり、全員が亡くなったものと推測されています。
     脱出した野村氏は元安橋が崩壊しているため辛うじて原形を留めていた相生橋を伝って見通しの利かない中で激しい火災を必死でかわしながら西方の己斐方面へと脱出したそうです。

     その後は放射線被爆による様々な症状に悩まされるも12月頃までには奇跡的に回復、最終的に昭和57年(1982年)6月まで存命し、その間最も爆心地に近い唯一の生存者として惨状を語り続けており、野村氏の証言は原爆体験記(朝日新聞社により1965年刊行)を始めとして様々な体験記にその名を見ることができます。
     
     爆心地付近を敢えて定義するならば、爆心地から500m未満がその範囲ということになるだろうと自らの主観で判断します。すると、この範囲で生き残った極僅かな生き残りの殆どが奇跡的な幸運に加え、その日に限っていつもとは違う行動を採っていたがために難を逃れているのです。
     野村氏もその日に限って課長が書類を忘れ、自ら書類を取りに行って難を逃れました。
     この他生き残った一番の要因は、頑丈な建物の中、或いは地下にいたため原爆炸裂で最も危険な初期放射線を浴びていないことが大きいと見られています。確かに爆心地付近の生き残りの方々は急性放射線障害に苦しめられるも、殆どが12月頃までに回復するとその後はほぼ何事もなく戦後かなりの長きに渡って生きていることがわかっています。

コメント

古トピの為、これ以上コメントできません

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返信コメント

  • No.16 秋晴れ

    17/09/13 22:08:59

    歌よりも>>1の野村英三さんの話がすごいと思ってしまった

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