- なんでも
- 黒石つゆやきそば
- 17/07/22 23:19:37
こんなに暑い時期に誰もいない山に堕ちて、まだ意識もあった人達も沢山いたみたいですね。喉も渇いて辛かったと思う。私は毎年この時期になるとこの事故の事を思い出しては眠れない日が続きます。
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こんなに暑い時期に誰もいない山に堕ちて、まだ意識もあった人達も沢山いたみたいですね。喉も渇いて辛かったと思う。私は毎年この時期になるとこの事故の事を思い出しては眠れない日が続きます。
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>>435
123便の酸素マスク降りてきた時の機内写真にそっくりだ
1人暮らし始めた時で、テレビ見て怖くて実家に電話しちゃった。
女の子がヘリコプターに吊られて行くのとか、絶対忘れられない。
あの事故を見てから、飛行機が怖くてあまり乗りたくない
>>435
JALとANAは違うけど、6時頃発の伊丹行きってまさにじゃん
トロンというものが関係してるのかな?Windowsに匹敵するもの。
私は、この飛行機事故で特に覚えているのは、甲子園球場に行くのを楽しみに、おばあちゃん家へ泊まりに行くために、一人で搭乗した小学生の野球少年のこと。
おばあちゃんは、孫の到着を楽しみにご馳走を作って待っていて、確か叔父さんが伊丹空港に迎えに行ったんだよね。
そこで、事故の知らせ。
男の子は、初めての一人旅で空港の搭乗口まで送ってくれた母親を気遣って『気を付けて』って声を掛けたのが、母親との最後の会話だったんだよね。
当時、スチュワーデスさんが付いてくれて、搭乗口から子供が一人で乗る、飛行機の一人旅体験が流行っていた。
事故の知らせを聞いた両親は、息子の好きなスポーツドリンクと、下山するのに必要なスニーカーとレインコートをリュックに詰めて、墜落現場の山を登ったんだよね。
結局、右手しか見付からなくて。
でもお父さんは『右手があるから野球がまたできる』と。
毎年、ご両親はあの山に慰霊のために登ってるそうで。
何年経っても、私も忘れられないです。
自分の息子が今小学生になって、余計に想う。
どうしても私は、息子を一人で飛行機には乗せられない。
そして、あの男の子の座席の隣にはたまたま保育士を目指していた女性が一人で座っていたそうで、その女性のお母さんは
『娘は子供が大好きだったから、隣の男の子と最初は仲良く話したりしていたと思う、その後は事故の恐怖の中、男の子を励ましていたと思う』
と、おっしゃっていました。
男の子のお母さんは、少し救われたのではないでしょうか。
ぴよぴよ
>>431本当だよ。私リアルで見ててそのニュース速報出たの覚えてるもん。
>>416
たしか、さんまも乗る予定だったけど、早いやつだか遅いやつだかにして、難をのがれたんだよね。
>>441
遺族会の代表されてる、美谷島さんの坊っちゃんのことかな?
悲しいですよね。
日航の安全啓発センターを訪問してみてください。当時の惨劇を繰り返さないために。
>>441
私、男の子と同じ年齢でした
当時、ちびっこ一人旅だったかな?で
私も春休みに乗っていたんですよね
一人で飛行機に乗るのって貴重な体験だけど
リスクもあるなと今は思います
私は翌年も一人で飛行機に乗ってましたが
あんまり考えてなかったんだろうなと
今は色々考えて二度と起こしてはならない事故、この時期は必ず思い出しています
>>416
凄い、運がいいほうですか?
>>441
その子かな?
「羽田でせがまれたコーラ飲ませてよかった」 日航機墜落32年 小6次男しのぶ両親
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017081302000113.html
赤いパーカが掛けられた次男裕史君の墓標を見つめる滝下政則さんと史代さん夫妻=12日午後、群馬県上野村で
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/images/PK2017081302100040_size0.jpg
野球に熱中していた小学6年の次男が日航機墜落事故で亡くなってから32年。
東京都大田区の滝下政則さん(77)と史代さん(74)夫妻は、体の衰えを感じながら現場の「御巣鷹(おすたか)の尾根」(群馬県上野村)に登り続けている。
「夏になると(次男が)山に戻って待っているから」。
12日も墓標への道を一歩ずつ進んだ。
三人きょうだいの末っ子だった次男裕史(ひろし)君=当時(11)=は負けず嫌いで目立ちたがり屋。
プロ野球巨人のファンで毎晩、政則さんと一緒にバットを振った。
身長は一四〇センチに満たなかったが、学校のチームで正捕手の座をつかみ取った。
一九八五年八月十二日。あの日も試合があり、勝って帰宅すると兵庫の親戚宅に一人で行きたいと訴えた。
「度胸があるところを見せたかったのでしょう」と政則さん。急いで航空券を予約した。
羽田空港のロビーでコーラ飲料をせがまれた。スポーツに炭酸は厳禁と思って飲ませていなかったが、この日ばかりは許した。
「おいしいね」と笑顔の裕史君。小さな体にリュックを背負い「行ってきます」と声を弾ませてゲートに向かった。
事故機に乗せた後悔は消えない。でも政則さんは「あの時に飲ませてあげてよかった」と思う。
事故後、遺体が見つかった尾根の墓標近くに柱を立て、裕史君が好きな赤いパーカをかけてきた。
今は大人用に替え、手向けるジュースも成人したはずの年に缶ビールとつまみにした。政則さんの禁煙に合わせ、たばこは供えるのをやめた。
日航ジャンボ機墜落事故で亡くなった滝下裕史君
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/images/PK2017081302100041_size0.jpg
だが、脳裏に焼き付いているのは十一歳のかわいい次男のまま。
生きていればどんな表情をし、どんな家庭を築いているだろうか-。史代さんは「大人になった姿を見てみたいです」とつぶやく。
御巣鷹の尾根には例年、春と八月十二日、秋の計三回登ってきた。
約五年前に政則さんが脳梗塞を患ってからは年二回に。今年はこの日だけだ。
夫妻はつえを持ち、手すりを頼って少しずつ尾根を歩いた。
墓標の前にやって来ると、柱の赤いパーカを新しいものに替え、手を合わせてじっと目を閉じる。
「心の中で『来たよ』と話しました」と政則さん。こう語り掛けると、帰る時は息子が一緒にいる気がする。
だから、回数が減っても慰霊登山をやめるつもりはない。体が続く限り、そばに行きたい。
コーラ飲めて良かったよね。
>>441
機内の中で何を思ったでしょう
怖かっただろうな1人で…御冥福をお祈りいたします。
>>435
同じ日同じ時間同じ行き先なんだよね。
何もなくてよかった
>>449全く違うよ…?(笑)
眠れない日々が続くような事はないけど、毎年思い出しますね。
子供心に衝撃的だった。
川上けいこちゃんは元気かなーとか。
毎年、あーもうそんな時期かと。
著書もいくつか読んだよ。
>>441確かPL学園の試合を観に行く予定だったんだよね?
当時、桑田と清原がいたんだっけ。
試合観戦、楽しみにしてたんだろうな。
切ないね…
ブラックボックスの音声聞いてた。
みなさんのご冥福をお祈りいたします。
早くに到着して助けようとしていた人もいたのですね。なぜ許可が必要だったのでしょう。引き返したのがすごく残念です。
>>437すごい歳とってそう
私幼稚園児だったわ