• No.1 明智あんな

    26/03/29 16:31:18

    ☆大関和の生涯
    1858年(安政5年)
    下野の黒羽藩(栃木県大田原市)の国家老の大関増虎の次女として生まれ、明治維新後増虎が家老を辞職後に東京に移住
    1876年(明治9年)19歳のときに黒羽藩の次席家老の渡辺家の次男・福之進(豊綱)と結婚して長男・六郎、長女・心を生む
    夫と妾の関係が清算されずに離婚となり1881年に東京に戻った
    鹿鳴館に出入りして上流家庭や外国人の交流を機に英語取得のため正美英学塾に通う
    塾の経営者の兄・植村正久(下谷一致教会の牧師)に師事
    和の優れた才能を見出した植村から専門的に学んだ看護婦(トレインドナース)を勧められた和は看護婦に志願をする
    1886年(明治19年)桜井女学校(現女子学院)の付属看護婦養成所の1期生で入学。鈴木雅と出会う
    養成所には実習施設が無いので帝国大学医科大学付属第一病院(現東京大学医学部附属病院)の実習生として派遣され、講師のアグネス・ヴェッチから看護学の指導を受けた
    1887年植村によりキリスト教の洗礼を受けた
    卒業後、1888年(明治21年)日本初の看護婦の資格を取得
    帝国大学医科大学付属第一病院の【外科】の看護婦長となる
    >>3 へ続く

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  • No.3 明智あんな

    26/03/29 16:33:58

    >>1
    ☆大関和の生涯(後半)
    和はハードスケジュールで学ぶ時間が取れない看護婦の待遇改善を求め建議書を提出したが医師達から反発を招き病院から追い出された
    1890年(明治23年)新潟の高田女学校(現上越高校)の舎監になりその後、大学病院時代の医師・瀬尾原始と再会。招かれた知命堂病院で看護婦長になり看護婦らと赤痢の防疫にも活躍
    1896年(明治29年)上京して鈴木雅が設立した神田の東京看護婦会の講師となる
    1899年「派出看護婦心得」出版。大日本婦人矯風会創設
    1900年心が結核で20歳で死去
    1901年雅の後任の東京看護婦会の会頭となり日本キリスト教婦人矯風会の理事も務める
    1904年日露戦争に出兵した兵士に送る慰問袋制作に尽力
    1908年実地看護法出版
    1909年(明治42年)神田猿楽町に大関看護婦会を開設。優良な看護婦の養成と派出看護業務を開始した。
    1910年六郎がジャワ島でマラリアになり33歳で死去
    その後の関東大震災で大関看護婦会が全焼するも看護活動に奔走し、
    のちに女性地位向上のため娼婦廃止や婦人参政権の運動などもして活躍した
    脳溢血で半身不随となり1932年(昭和7年)大関看護婦会で死去。享年73歳
    ※派出看護業務は看護婦が患者の家に出向く看護

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