山城守
まず、石亭の戦いについて概説する。呉の周魴が曹休に対し魏に投降したい旨の虚偽の書状を7通送付し、さらに孫権が周魴の髪を切断する等の工作を行った(当時中国では身体の一部を欠損させる行為は最大の侮辱であった)ため曹休は周魴を信じるに至り、皇帝である曹叡の命令の下、曹休、賈逵、滿寵、胡質が呉に侵攻を開始、賈逵が五將山に至った頃、曹休が「内応者(恐らくは周魴)がさらなる進軍を望んでいる。」と上奏し、さらなる進軍を開始、曹休軍は皖において正面に陸遜、左右側面に朱桓、全琮の攻撃を受け惨敗した。
さて、ここからが質問である。皖において正面に陸遜、左右側面に朱桓、全琮の攻撃を受けた際の曹休の行動について正史三國志では「休、既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/58_rikuson.html 三國志卷五十八/吳書十三/陸遜傳第十三)と記載があり、曹休が恥になるのを恐れ自軍の数の多さを恃みに交戦したことになっているが、果たして右の如く包囲された状態で、交戦に入ろうとする指揮官がいるだろうか。思うに曹休が撤退しようとしたが呉軍の攻撃が激烈で止むを得ず交戦に入ってしまった可能性は無かろうか。
そこで諸君に意見を求めたい。曹休は正史の通りプライドを守るというために自軍の数を恃みに交戦したのかそれとも撤退しようとしたが呉軍の攻撃凄まじく交戦状態に入ってしまったのか。理由も付してお願いする。
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