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真田幸隆
苦楽を共にしたからこそ、「故人の遺志」は尊重したかった。遺言に忠実に執り行われた家族葬が、物議をかもしている。
【写真】婚約会見で光沢あるタイとチーフをしたスーツ姿の渡哲也さんと、大判なボタンのブラウスにベリーショートヘアの俊子さん。見つめ合う
《葬儀につきましては、静かに送ってほしいという故人の強い希望により本日、家族葬というかたちで執り行わせていただきました》
石原プロモーションが、渡哲也さん(享年78)の訃報を発表したのは8月14日。亡くなってから4日後のことで、渡さんの葬儀が近親者のみでしめやかに営まれた後だった。だがその葬儀に、渡さんを兄として慕い、師と仰いでいた舘ひろし(70才)をはじめ、石原軍団の姿はなかった。
「これは妻の俊子さんが、『静かに送ってほしい』という渡さんの遺言を守った結果なんです。舘さんは“せめて遺骨の前で手を合わせたい”と、事務所の幹部にお願いしたそうです。でも俊子さんはそれを認めなかったんです」(石原プロ関係者)
この振る舞いが、「舘さんが不憫だ」「非情」として物議をかもしている。だが、俊子さんが頑なに渡さんの遺志を守り、譲らなかったのには理由がある。
渡さんが俊子さんと出会ったのは、大学2年生のときだった。渡さんは、1学年下で大手鉄鋼会社役員の令嬢である俊子さんに一目惚れ。交際に発展して、1971年にふたりだけでハワイで結婚式を挙げている。
この年、渡さんはそれまで所属していた日活を退社して石原プロに入社。1987年に石原裕次郎さん(享年52)が他界すると、跡を継いで石原プロの社長に就任し、長く事務所を支え続けた。
「渡さんは膠原病で9か月の長期入院を強いられたり、直腸がんや大腸がんなどを患って、闘病生活を幾度となく送っています。撮影中に大けがをしたこともありました。そんな渡さんを傍で支えていたのが、俊子さんなんです。俊子さんは、自分の体調も省みずに石原プロの運営に苦心する夫の姿を、何十年と見ていたんです」(俊子さんの知人)
2011年に社長を辞任し、2015年には急性心筋梗塞で緊急手術を受けると、車いすを使いながらの生活を余儀なくされた。そんな状態ながら、2017年には相談取締役として再び石原プロの経営に参加する。
「車いすに加えて、酸素吸入器も手放せない状態だったようです。俊子さんはそんな夫と生活する中で、“残された時間を家族のために使ってほしい”という思いを抱くようになっていました。それでも渡さんは最期まで、来年1月に解散することが決定している石原プロの“清算”に尽力した。せめて、亡くなってからの時間だけでも“誰にも邪魔されたくない”と思ったのではないでしょうか。
あのふたりは、渡さんが“おい”と呼べば俊子さんが“はい”と駆けつける、亭主関白を絵に描いたような夫婦でした。断固、夫の遺志を尊重して貫いたというのも俊子さんらしい」(前出・俊子さんの知人)
批判の声もあるが、ふたりの人生を象徴するかのような俊子さんの振る舞いだったのだ。
2017年3月に亡くなった渡さんの弟・渡瀬恒彦さん(享年72)の妻も夫を静かに見送った。派手なことを嫌った故人の遺志により、近親者のみによる家族葬が営まれた。
「渡瀬さんは2015年8月に胆のうがんが見つかり、入退院を繰り返しながらも仕事を続けていました。亡くなる前は激痛を伴う肺気腫を発症していましたが、それでも亡くなった翌月に控えていたドラマ『警視庁捜査一課9係』(テレビ朝日系)のせりふを全部覚えていて、亡くなる前日にも病室を訪れたスタッフと撮影の話をしていたようです」(テレビ局関係者)
最期まで仕事に情熱を燃やす一方で、葬儀についても生前から妻・い保さんと話し合っていたという。
「戒名はいらない。棺のまわりは渡瀬さんが好きだったラン科の黄色い花、オンシジュームで取り囲み、遺影もい保さんの誕生日に撮影したものを使うと決めていたようです」(渡瀬さんの知人)
棺の中には、い保さんの手で家族の手紙や家族写真が納められたという。
※女性セブン2020年9月17日号
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