- ニュース全般
-
>>5885続き
■4.今度はロシアに急接近
日本は下関条約で、台湾と遼東半島を得たが、これに待ったをかけたのが、ロシアだった。
ロシアはドイツ、フランスと謀って、遼東半島を清国に返還するよう要求した。
三国を敵に回す力のない日本は、やむなくこの三国干渉に従った。
これを見て、高宗と閔妃は手のひらを返すように、ロシアに急接近した。
ロシア公使のウェーバーと共謀して、内閣の親日改革派を追い落とす。
このままでは朝鮮半島をロシアに握られ、日本にとっても一大危機となると、三浦梧楼公使と日本の浪人たちが、朝鮮の王宮に乱入し、閔妃を斬殺した。
この蛮行で、国際社会と朝鮮国内の日本の立場は悪くなり、親露派が勢いを増した。
1896年2月、親露派はウェーバーと共謀して、ロシア軍艦から120名の将兵を漢城に呼び出し、彼等に護送される形で、高宗と世子をロシア公使館に移した。
高宗は親政を宣言し、内閣の大臣5人を逆賊として逮捕殺令を布告した。
こうして朝鮮国王がロシア公使館から「親政」を行うという世界史上でも類例のない珍事が1年以上にわたって続いた。
親政といっても、ロシア人の将校と財政顧問がそれぞれ軍事と財政を握った属国政治である。
こうして、日本は日清戦争を戦って、清国の覇権を排除したのもつかの間、今度はさらに強大なロシアが半島に居座ってしまったのである。
日本の独立が再び脅かされる事態となり、今度は日露戦争を戦わざるをえなくなった。
何とか、日露戦争に勝って、ロシアと結んだポーツマス条約の第一条では、
「ロシアは大韓帝国における日本の政治上・軍事上および経済上の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと」と約した。
まさに清国相手の下関条約の繰り返しだった。
続く- 0
16/07/15 22:25:49