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ひとりでも外でご飯を食べることはある?
19/11/13 15:06:30
【雅子さま、オックスフォードからご結婚まで】 どこの官庁でも、優秀な上級職(キャリア)は官費で留学させるシステムがあります。 1988年雅子さまは皇太子妃候補として騒がれるのを避けるためもありましたが、仕事のために外務省から出向の形でイギリスオックスフォードへ留学しました。 そして、皇太子妃候補としては全くふさわしくない「日本政府によるアメリカ製航空機の購入」(今日も続いている政治的問題)をテーマとして選びました。 雅子さまは、これで皇太子さまとのご縁は無くなったと思って安心していらっしゃったのかもしれません。 それでも寮に報道陣が押しかけるので、教授の知り合いのお宅に住まわせてもらって大学へ通いました。 1988年7月9日~11日には第16回サミット(ヒューストン)で半導体問題担当の海部俊樹議員の通訳の一人として米国に出張しています。通常、外務省の若手エリートが要人の通訳をします。 その後、皇太子様は、宮内庁作成リストの他の女性ともお付き合いし、何度もお会いしてうまく進みそうだった有力な方々もいたのですが、 (1)祖先に台湾総督府総務長官がいることで外交面でマイナスになるという判断が働いたり、 (2)親戚に経済事件に関連して脱税容疑で逮捕されていたり、 (3)マスコミ・政治家関係の娘は好ましくない、 などの選考基準で候補から外されたようです。 どこか上の方で、皇太子のお妃選びが難航しており、政治的に問題のあるテーマの研究は皇太子妃候補としてふさわしくない、との判断が働いたらしく、1990年6月に雅子さまは研究途中なのに、外務省から呼び戻されてしまいました。 担当したチュカリス教授の話「雅子は賢いだけではなく、非常に性格がよく、彼女が私の教え子でなければ、『尊敬』という言葉に値する人物だと思います。…外務省から呼び戻されたため、修論を断念しなければならなかったのが残念です。」 教授は、雅子さま結婚後、何かの折にあの研究はかなり出来上がっているから日本で研究して論文にすれば修士を取るには充分なことを伝えたそうです。 すでに皇太子妃となってしまった雅子さまはそのテーマについて触れることすら問題が起こると感じたのでしょうか、その件についてのお返事はしなかったそうです。 多分、教授も事情をわかっていらっしゃって、念のために伝えたのでしょう。 <続く>
19/11/13 15:08:36
<>>315から続き> 1990年に帰国された雅子さまは、エリート中のエリートが配属される北米局北米第二課(アメリカ、カナダの経済に関する外交政策)へ配属されました。将来は駐米大使を目指す出世コースです。 国連英検特A級の資格を持ち、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を駆使して、USTRとの日米半導体協議などの仕事をし、トップ間会議の同時通訳を勤め、アメリカ側からも、その能力の素晴らしさを称賛されました。 1991年(平成3年)3月、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。 1991年(平成3年)3月11日には外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍していました。圧倒的な学力で日本の政治家達は驚かれたそうです。 1989年11月に通商代表部USTRカーラ・ヒルズ代表が後藤法務大臣へ申し入れた「アメリカ弁護士の事務所への日本市場開放要求」日米交渉で米側アドバイザーには、テレビコメンテーターとして知られる湯浅卓弁護士(麻布→東大法 → UCLAローLL.M.取得 → コロンビア・ロー → ハーバード・ロー、NYとワシントンD.C.の弁護士資格)がついていて、日本側で働く雅子さまの有能さを間近で体験したそうです。 美しく聡明な雅子さまの仕事ぶりを見て、「是非ともうちの息子の嫁に」と言った閣僚の逸話もあります。 元総理大臣のスピーチ原稿を草稿する役目をした時、雅子さまが最後に追加しておいたエピソードが印象的で素晴らしかったそうです。 これらは全てマスコミ報道されています。 一方、1992年ごろには宮内庁のリストに有力な妃候補がいなくなってしまい、最後に宮内庁長官が皇太子様のお気持ちを聞くと「雅子さんではだめでしょうか?」のお尋ねがありました。 そこから、一気呵成にお二人の結婚へ向けてお話が進んだのです。 <終>
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No.315 雅子さま、オックスフォードからご結婚まで
19/11/13 15:06:30
【雅子さま、オックスフォードからご結婚まで】
どこの官庁でも、優秀な上級職(キャリア)は官費で留学させるシステムがあります。
1988年雅子さまは皇太子妃候補として騒がれるのを避けるためもありましたが、仕事のために外務省から出向の形でイギリスオックスフォードへ留学しました。
そして、皇太子妃候補としては全くふさわしくない「日本政府によるアメリカ製航空機の購入」(今日も続いている政治的問題)をテーマとして選びました。
雅子さまは、これで皇太子さまとのご縁は無くなったと思って安心していらっしゃったのかもしれません。
それでも寮に報道陣が押しかけるので、教授の知り合いのお宅に住まわせてもらって大学へ通いました。
1988年7月9日~11日には第16回サミット(ヒューストン)で半導体問題担当の海部俊樹議員の通訳の一人として米国に出張しています。通常、外務省の若手エリートが要人の通訳をします。
その後、皇太子様は、宮内庁作成リストの他の女性ともお付き合いし、何度もお会いしてうまく進みそうだった有力な方々もいたのですが、
(1)祖先に台湾総督府総務長官がいることで外交面でマイナスになるという判断が働いたり、
(2)親戚に経済事件に関連して脱税容疑で逮捕されていたり、
(3)マスコミ・政治家関係の娘は好ましくない、
などの選考基準で候補から外されたようです。
どこか上の方で、皇太子のお妃選びが難航しており、政治的に問題のあるテーマの研究は皇太子妃候補としてふさわしくない、との判断が働いたらしく、1990年6月に雅子さまは研究途中なのに、外務省から呼び戻されてしまいました。
担当したチュカリス教授の話「雅子は賢いだけではなく、非常に性格がよく、彼女が私の教え子でなければ、『尊敬』という言葉に値する人物だと思います。…外務省から呼び戻されたため、修論を断念しなければならなかったのが残念です。」
教授は、雅子さま結婚後、何かの折にあの研究はかなり出来上がっているから日本で研究して論文にすれば修士を取るには充分なことを伝えたそうです。
すでに皇太子妃となってしまった雅子さまはそのテーマについて触れることすら問題が起こると感じたのでしょうか、その件についてのお返事はしなかったそうです。
多分、教授も事情をわかっていらっしゃって、念のために伝えたのでしょう。
<続く>
No.316 雅子さま、オックスフォードからご結婚まで
19/11/13 15:08:36
<>>315から続き>
1990年に帰国された雅子さまは、エリート中のエリートが配属される北米局北米第二課(アメリカ、カナダの経済に関する外交政策)へ配属されました。将来は駐米大使を目指す出世コースです。
国連英検特A級の資格を持ち、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を駆使して、USTRとの日米半導体協議などの仕事をし、トップ間会議の同時通訳を勤め、アメリカ側からも、その能力の素晴らしさを称賛されました。
1991年(平成3年)3月、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。
1991年(平成3年)3月11日には外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍していました。圧倒的な学力で日本の政治家達は驚かれたそうです。
1989年11月に通商代表部USTRカーラ・ヒルズ代表が後藤法務大臣へ申し入れた「アメリカ弁護士の事務所への日本市場開放要求」日米交渉で米側アドバイザーには、テレビコメンテーターとして知られる湯浅卓弁護士(麻布→東大法 → UCLAローLL.M.取得 → コロンビア・ロー → ハーバード・ロー、NYとワシントンD.C.の弁護士資格)がついていて、日本側で働く雅子さまの有能さを間近で体験したそうです。
美しく聡明な雅子さまの仕事ぶりを見て、「是非ともうちの息子の嫁に」と言った閣僚の逸話もあります。
元総理大臣のスピーチ原稿を草稿する役目をした時、雅子さまが最後に追加しておいたエピソードが印象的で素晴らしかったそうです。
これらは全てマスコミ報道されています。
一方、1992年ごろには宮内庁のリストに有力な妃候補がいなくなってしまい、最後に宮内庁長官が皇太子様のお気持ちを聞くと「雅子さんではだめでしょうか?」のお尋ねがありました。
そこから、一気呵成にお二人の結婚へ向けてお話が進んだのです。
<終>
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