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みんな年末年始、何して過ごす?
14/10/28 11:53:14
※主人公の亀山政春のモデル 【竹鶴政孝】の生涯 【1894(明治27)年6月20日 ~1979(昭和54)年8月29日】 1894(明治27)年、広島県竹原市の造り酒屋の三男として生まれる 家業【竹鶴酒造(ドラマでは亀山酒造)】を継ぐべく大阪高工(現・ 大阪大学)醸造科で醸造を学んだが、日本酒ではなく洋酒に興味を 持ち始め、卒業を待たず当時の日本の洋酒業界の雄【摂津酒造(ド ラマでは住吉酒造)】へ押しかけ入社 1916年(大正5)大阪高等工業学校醸造科卒業 1918~21年までウイスキー製造の勉強のためスコットランドに留学 スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学 部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼ま れて末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えていたが、 その姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)【ドラマで はエリー】と親交を深め、1920年(大正9)1月8日結婚 政孝とリタが1921年(大正10)に帰国するが第一次世界大戦後の恐 慌で摂津酒造が経営難でウイスキー造りが困難になる 1922年(大正11)ウイスキー製造計画立ち消えのため摂津酒造を退社 退社後、政孝は大阪の桃山中学(現・桃山学院高等学校)で化学を 教え、リタも英語やピアノを教えて稼いだ 1923年(大正12)社長の鳥井信次郎(ドラマでは鴨居欣次郎)のスカウ トで【鳥井商店→寿屋(ドラマでは鴨居商店)】(現・サントリー) に10年契約で入社し、ウイスキー製造に尽力 1924年11月山崎工場(京都郊外)が竣工され竹鶴はその初代工場長 となる 1929年4月1日竹鶴が製造した最初のウイスキー『サントリー白札』 が発売される 鳥井(日本人向けの味の追求)と政孝(スコットランド製法を追求)は ウイスキーづくりで意見が対立し、寿屋を10年勤務後に退社 北海道に渡り独立して1934年(昭和9)【大日本果汁】を設立 北海道余市でウイスキー製造を準備 ウイスキー準備に時間がかかるのでその間、リンゴジュースを製造 して販売していた 1940年(昭和15)第1号のウイスキーが発売された その時「大日本果汁株式会社」を短くして「日果(ニッカ)」と呼 ぶことにした ここに【ニッカ】ブランドが誕生するのである [その後サントリーとニッカウヰスキーはライバル対立となる] >>2 続き
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古トピの為、これ以上コメントできません
14/10/28 11:56:17
>>1 つづき 工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)校長に頼まれ1941年、中学校にジャンプ台を寄贈した このジャンプ台は【竹鶴シャンツェ】と呼ばれている 1943年(昭和18)二人に子供ができなかったため、戦時中ではあったが広島工業専門学校(現・広島大学)醗酵工学科在学中の甥(政孝 の姉・延代の子)の威(現・ニッカウヰスキー相談役)を養子に迎える 威は北海道大学工学部を卒業した昭和24年、大日本果汁(現ニッカ ウヰスキー)に入社 威は昭和26年に歌子と結婚、(政孝・リタの義理の孫)27年政太郎、 29年みのぶが生まれる 1952年(昭和27)【ニッカウヰスキー】に社名変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転し、港区麻布(現在の六本木ヒルズ所在地) に東京工場を設置した リタは60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになり 1961年(昭和36)1月17日、政孝に看取られ永眠した 享年64歳 政孝はリタの葬式の準備も威に任せたまま、部屋に閉じこもり火葬場にも行かなかった リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられた 1965年(昭和40)余市町の名誉町民に選ばれる 1969年(昭和44)勲三等瑞宝章を受章 1970年(昭和45)ニッカウヰスキー代表取締役会長に就任 第11回冬季オリンピック札幌大会(1972年) 宮の森シャンツェで行われた70メートル級ジャンプで、ニッカウヰスキーの社員であった笠谷幸生選手が金メダル獲得 (笠谷は竹鶴シャンツェでジャンプの練習をしていた) 1979年(昭和54)8月29日午前5時30分、肺炎のため入院先の東京都文京区の順天堂大学付属病院で死去した 享年85歳 ※政孝とリタの養子はもう1人いる 威を養子にする前(昭和5年)に実母を亡くした遠縁の女の子【リマ (出生名は房子)→ドラマではエマ】が赤ん坊の時に養子にしたが、政孝の経歴には入れられていない「黒歴史」扱い 原因はリマが養母の白人のリタを憎み、折り合いが悪くなり関係も 亀裂が入り疎遠になるが、リマは時々金銭で政孝を頼ることはあっ た (リタの亡くなる数年前には2人の関係は修復した) (写真は1931年のリタの2度目の里帰り 左からリタの姪バレリー、竹鶴リタ、竹鶴リマ、リタの母親ロビーナ・カウン)
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子育てや家事、旦那に関する悩み相談、TV、芸能人に関する雑談など何でもOK!
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No.1 主 クイーンミラージュ
14/10/28 11:53:14
※主人公の亀山政春のモデル
【竹鶴政孝】の生涯
【1894(明治27)年6月20日
~1979(昭和54)年8月29日】
1894(明治27)年、広島県竹原市の造り酒屋の三男として生まれる
家業【竹鶴酒造(ドラマでは亀山酒造)】を継ぐべく大阪高工(現・
大阪大学)醸造科で醸造を学んだが、日本酒ではなく洋酒に興味を
持ち始め、卒業を待たず当時の日本の洋酒業界の雄【摂津酒造(ド
ラマでは住吉酒造)】へ押しかけ入社
1916年(大正5)大阪高等工業学校醸造科卒業
1918~21年までウイスキー製造の勉強のためスコットランドに留学
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学
部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼ま
れて末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えていたが、
その姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)【ドラマで
はエリー】と親交を深め、1920年(大正9)1月8日結婚
政孝とリタが1921年(大正10)に帰国するが第一次世界大戦後の恐
慌で摂津酒造が経営難でウイスキー造りが困難になる
1922年(大正11)ウイスキー製造計画立ち消えのため摂津酒造を退社
退社後、政孝は大阪の桃山中学(現・桃山学院高等学校)で化学を
教え、リタも英語やピアノを教えて稼いだ
1923年(大正12)社長の鳥井信次郎(ドラマでは鴨居欣次郎)のスカウ
トで【鳥井商店→寿屋(ドラマでは鴨居商店)】(現・サントリー)
に10年契約で入社し、ウイスキー製造に尽力
1924年11月山崎工場(京都郊外)が竣工され竹鶴はその初代工場長
となる
1929年4月1日竹鶴が製造した最初のウイスキー『サントリー白札』
が発売される
鳥井(日本人向けの味の追求)と政孝(スコットランド製法を追求)は
ウイスキーづくりで意見が対立し、寿屋を10年勤務後に退社
北海道に渡り独立して1934年(昭和9)【大日本果汁】を設立
北海道余市でウイスキー製造を準備
ウイスキー準備に時間がかかるのでその間、リンゴジュースを製造
して販売していた
1940年(昭和15)第1号のウイスキーが発売された
その時「大日本果汁株式会社」を短くして「日果(ニッカ)」と呼
ぶことにした
ここに【ニッカ】ブランドが誕生するのである
[その後サントリーとニッカウヰスキーはライバル対立となる]
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No.2 主 クイーンミラージュ
14/10/28 11:56:17
>>1 つづき
工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)校長に頼まれ1941年、中学校にジャンプ台を寄贈した
このジャンプ台は【竹鶴シャンツェ】と呼ばれている
1943年(昭和18)二人に子供ができなかったため、戦時中ではあったが広島工業専門学校(現・広島大学)醗酵工学科在学中の甥(政孝
の姉・延代の子)の威(現・ニッカウヰスキー相談役)を養子に迎える
威は北海道大学工学部を卒業した昭和24年、大日本果汁(現ニッカ
ウヰスキー)に入社
威は昭和26年に歌子と結婚、(政孝・リタの義理の孫)27年政太郎、
29年みのぶが生まれる
1952年(昭和27)【ニッカウヰスキー】に社名変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転し、港区麻布(現在の六本木ヒルズ所在地)
に東京工場を設置した
リタは60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになり
1961年(昭和36)1月17日、政孝に看取られ永眠した
享年64歳
政孝はリタの葬式の準備も威に任せたまま、部屋に閉じこもり火葬場にも行かなかった
リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられた
1965年(昭和40)余市町の名誉町民に選ばれる
1969年(昭和44)勲三等瑞宝章を受章
1970年(昭和45)ニッカウヰスキー代表取締役会長に就任
第11回冬季オリンピック札幌大会(1972年)
宮の森シャンツェで行われた70メートル級ジャンプで、ニッカウヰスキーの社員であった笠谷幸生選手が金メダル獲得
(笠谷は竹鶴シャンツェでジャンプの練習をしていた)
1979年(昭和54)8月29日午前5時30分、肺炎のため入院先の東京都文京区の順天堂大学付属病院で死去した
享年85歳
※政孝とリタの養子はもう1人いる
威を養子にする前(昭和5年)に実母を亡くした遠縁の女の子【リマ
(出生名は房子)→ドラマではエマ】が赤ん坊の時に養子にしたが、政孝の経歴には入れられていない「黒歴史」扱い
原因はリマが養母の白人のリタを憎み、折り合いが悪くなり関係も
亀裂が入り疎遠になるが、リマは時々金銭で政孝を頼ることはあっ
た
(リタの亡くなる数年前には2人の関係は修復した)
(写真は1931年のリタの2度目の里帰り
左からリタの姪バレリー、竹鶴リタ、竹鶴リマ、リタの母親ロビーナ・カウン)