- なんでも
- 真愛
- KDDI-SA31
- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
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あげ
あげ
子供の頃から疑問だった。母の母(お祖母ちゃん)はよそよそしくて同じ孫にあたるイトコ達とは何か違った接し方だった。母はばあちゃんと話すときは敬語だった。そんな遠くもないのに会いに行く時はお盆と正月だけだった。そんなある正月の話。ばあちゃんちに行ったらばあちゃんが「これお母さんの結婚式のビデオ出てきたから見るかい?」って。あたし達姉妹はみるみる!って大興奮。でも母は「絶対見てはダメ」って。母「母さん私まだこの子達に言ってないんだよ」って意味ありげな発言。何だろう?って思いながらもビデオ再生。若い父と母(笑)仲人が二人を紹介し始めた。父から~母に。あたしの耳に入ってきたのは「養女」。謎が全て解けた気がした。妹二人はまだ小さかったから気付いてない様子だった。
ばあちゃんだと思って人は本当のばぁちゃんぢゃないんだ…。凄くショックだった。
母と温泉に入った時に「お母さん養女だったんだね」って聞いた。母は「そうだよ、もう少し大人になってから話そうと思っていたんだけど。」あたし「本当の親はどこにいるの?」母「母は体が弱い人でお母さんが10歳の時に死んだよ。父は馬から落ちて死んだの。今のばぁちゃんは全く赤の他人って訳ぢゃないよ。貰われた時はお姉ちゃんと一緒だったから良かったよ。」
母「お母さんね、今とっても幸せなの。結婚して子供が三人いて家族で暮らしてる事が。〇〇、きょうだいは仲良くケンカしないで助け会わなきゃだめなんだよ」凄く重みのある言葉で泣いた
涙がとまらん&#x{11:F9D3};
あげあげェ&#x{11:F99A};
全部みた。やばい。うちの父も50代で亡くなりました。病気ながらも元気で居たのに……娘を一瞬みて逝きました。手紙を書いて棺の中に入れようとした何日かまえ夢に 手紙よんだよ。ありがとうと。私を抱き締めてくれました。頑固できびしい父が苦手で家でしたり、逆らってきたのに、やっと親孝行をしようと思ったときもう父は居ません。
19で水商売に入り、22で妊娠・未婚出産。周りに助けられながらも自分なりに生活してた。
そんな中、25の時に高校時代の元彼と再会した。初めは『私は子持ち、彼は初婚』という面で交際を拒んだけど、付き合うようになった。
彼の実家はとても厳しく、反対されるのは分かってた。案の定、親から電話があり「人の大事な息子を遅くまで引き留めるな!!ワシはお前達の交際は認めない!!」と怒られた。彼には「水商売して未婚出産した女は信用出来ない」と言ってたくらい…。
傷ついたけど分かってた事だったから、理解してもらえるように何度も彼の実家に通い、少しずつだけど自然に彼の両親と仲良くなれた。
そして私達の結婚式…。締めの挨拶の時、彼の父は「娘と孫が同時にできた。喜びも2倍です。」と号泣。。。
あれだけ反対されてたのに…と、喜びがこみ上げてきた。
彼の母は「〇〇君(私の息子)をこんなに立派に育ててくれて…ありがとう」と泣いた。
そんな二人は今では私や息子、そして結婚してから産まれた娘に甘く、旦那が「実の息子の俺は眼中になさそうだ…」とすねるくらいです。
あげ
まだ途中だけど。。 どれ見ても号泣
とても感動しました!
私には10歳離れた妹がいます。
私は中学卒業してから、高校へは行かずバイト生活。両親は妹にべったり。妹が生まれてから、両親は私に興味なし。
確かに妹は可愛かったけど、将来のことなんかを両親に相談できなかった。少し淋しかったな。
そんなとき、妹が入院。あんなに元気だったのに、だんだんと細くなる妹。
お見舞いに行くと「ねぇちゃん、早く元気になって幼稚園のみんなと遊びたい」ってよく言ってた。
入院して半年、妹は6歳になる手前で亡くなりました。
バイト先から病院へは2時間。間に合わなかった。悔しかった。
あれから、もう15年がたち私の子ももうじき5歳だ。
最近、両親から聞かされたことが1つ。
『○○ちゃん(妹)が危篤になる前ね「ママ・パパありがと。大好きだよ。でも○○はねぇちゃんが一番好き。ねぇちゃん大切にしてあげてね」って言われたよ。お前のことほったらかして悪かった』って言われました。
○○へ。。。ねぇちゃんも○○が一番好きだよ。病気治してやれなくてごめん。最後逢えなくてごめん。心配させてごめん。いつかねぇちゃんがそっちに行ったら一杯遊ぼうね。それまでは見守っててください。
みなさん長文失礼しましたm(__)m
寝る前に読んではダメだ…泣きすぎて明日はきっと瞼が大変な事になる(;_;)
あげます
アゲ
私の母は6人兄弟です。末っ子という事もあり、じいちゃんとばあちゃんはかなり歳をとっていました。
歳をとっている事や、訛りのせいもあり、何を話しているのか分からず、子供ながらに居心地の悪さを感じた事もあります。何か話しかけてもらった…という記憶もありません。
じいちゃんとばあちゃんが仲良く喋っていた…なんて記憶もありません。
ばあちゃんは体が弱く、私が小学校4年生の時に突然亡くなりました。
通夜の時、死というものがイマイチ理解出来ず、戸惑っていた私の目に入ってきた光景…それは、何時間もばあちゃんの前に正座し、遺影をじっと見つめているじいちゃんの姿…。
私はじいちゃんの姿を見て、ばあちゃんが死んでから初めて泣きました…。
死というものがイマイチ理解出来なかったけれど、じいちゃんとばあちゃんの絆みたいな物は本能的に感じとったのかもしれません。
あの光景は未だに頭の中に焼き付けられています。
じいちゃんは、ばあちゃんが死んで7年後に逝ってしまいました。
あげ&#x{11:F99A};
最初から、読みました&#x{11:F994};凄い感動&#x{11:F99F};&#x{11:F9D3};&#x{11:F99F};
私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。
そこで、私達はいつも近所に住むAさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、
その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」と言って、
母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、
ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…
あげます&#x{11:F99A};&#x{11:F99A};
涙ボロボロ
↓久しぶりに感動した(T_T)
感動です。
従姉のお姉ちゃんの話。
従姉と言っても、実家は隣同士なので、一人っ子同士の私達は本当の姉妹のように仲が良かった。
そんなお姉ちゃんが、七年前結婚しました。
旦那さんはとても素敵な方で、何より優しくて、お姉ちゃん凄く幸せそうだった。
すぐに二人の間には男の子が産まれ、その子も又可愛くて、誰が見ても幸せそのものでした。
そんなある日、何故か離婚したと、お姉ちゃんは戻って来ました。それも、あれだけ可愛がってた最愛の息子を置いて…。
お姉ちゃん癌だったんです。だけど、旦那さんには知らせず、息子が母親なしになるのが可哀相だと言い、旦那さんには好きな人が出来たと嘘を付いて別れたみたいです。
余命も自ら、医者に聞いたそうで、持って一年と言われたらしいです。
毎日病院で泣き崩れている、お姉ちゃん。だけど、絶対に旦那には連絡しないでと。これが私からあんたへの最後のお願いと言われてしまいます。
余命一年と言われたお姉ちゃんですが、それから頑張って四年生きました。私、やっぱり耐えられず、伯母に頼んで、元旦那さんに連絡しちゃったんです。
電話に出た旦那さんは泣いてました。でも、背後から女性の声と、楽しくはしゃいでる子供の声が。
数日後、旦那さんから連絡があり、お姉ちゃん会いたいと。
私は、こっそり病院を教えました。旦那さんはわざわざ飛行機で会いに来たみたいです。子供と新しい奥さんと。
後日、お姉ちゃんから私に連絡があって、ありがとうと言われました。新しい奥さんも凄く良い方だったらしく、二人の間には子供は作らない?出来ない?らしく、この子を一生かけて守りますと。四年振りに会った息子は、とても良い子に育っていたそうです。
息子に会い、泣いてしまったお姉ちゃんの事を、息子が頭をなでなでしながら、泣きたい時はいっぱい泣いても良いからね!って言われたそうです。
それから、一週間後、お姉ちゃんは天国に行きました。
父は昔気質の堅物人間で、口より先に手が出、箸の上げ下げ、敬語の使い方一つ、いちいち注意される。自分にも人にもとても厳しい父が私は大嫌いでした。
そんな父がガンになりました。発見時はすでに末期。入退院の繰り返し、死を待つだけの日々。しかし母は最期まで父には病名は言えませんでした。
ある日、仕事から帰ると父が台所で洗い物をしていました。ありえない光景。あれだけ威張り散らし、仕事以外何一つしなかった父が…。「何してるの?!」と言うと小さく笑いながら「何もできなくなっちゃったからよ、タダで飯は食えないだろ」と言いました。その背中は元気な時の半分くらいまで痩せていました。
そして最期、強い鎮痛剤で意識が混濁する中、うわ言で言いました。「やっぱりダメだったのか…」
父は死が迫る病だと分かっていて、言えなかった母を思い、知らないフリをし一人で戦っていたようです。
そして静かな最期でした。最期まで自分にも厳しかった父が今でも誇りです。
私には片方手がありません。そんな私も結婚し子供を産みました。これは、娘が5歳のときの話です。その年のクリスマス、娘は実家に泊まりに行っていました。朝起きると、分厚い絵本がおいてありました。(寝かし付けの時に必ず本を読みます)とても喜んでいたそうです。しかし、家には持ち帰ってきませんでした。プレゼントのことを聞くと「バァバの家に忘れちゃった」としか言いません。数日後、母から電話がありました。「Aちゃんね、サンタさんくれたけど、ママ手いっこしかなくて、重たくてこの本持てないからおいてくね」と言っていたそうです。何も知らなかった私は嬉しくて、娘に申し訳なくて、電話口で泣きました。
ネットで見た話。ある病院のガン病棟の大部屋に二人の男が入院していた。窓側の男は起き上がれず外の景色も見れず『もう俺は死ぬんだ』と悲観的になっている壁側の男にいつも窓の外の様子を話してあげていた。『もう桜がさいてきたよ。暖かいんだろうなぁ』『葉っぱが緑になってきた。木にセミがとまってるよ』など、とても楽しそうに話してくれていた。ある夜、窓側の男の容態が急変した。『うぅ…息が…苦しいんだ。先生を…呼んでくれないか…』窓側の男は壁側の男に助けを求めたが窓側の男は『こいつが死ねば俺が自分の目で外の景色を見れる。』と思い気付かないふりをして寝た。次の日窓側の男は息を引き取った。壁側の男は念願の窓側のベッドに移れた。『看護婦さんカーテンを開けてくれないか』看護婦はカーテンを開けた。そこにあった景色は打ちっぱなしのコンクリート一面の壁だった。
私は15の時に父と祖母を亡くしました。父は癌でした。病院に行った時には手遅れで余命は半年・・・。そして亡くなりました。祖母は父の横で「お前は本当にいい子だったね。」と言っていた。そして・・・父が亡くなった10日後に後を追うように祖母も亡くなった。元気だったのに・・・。仲の良い親子だったから一緒がいいんだなと思った。きっと天国でも仲良く暮らしてるんだろうな・・・
げ
あたしの人生は最悪な事の連続だったο幼稚園の時に父が病気で亡くなり小学生の時に母が蒸発ο父方の祖母に預けられる事になり毎日母の悪口を聞いて育ったο友達はお父さんやお母さんの話をしてて凄く羨ましかったο毎日孤独で人なんか信じられなくなってたο援交やクスリにも手だしたοどんどんダメになってく私の心と体οそんな時今の旦那と出会ったο私の全てを知っても何も言わずにギュッと抱きしめてくれた…一人なんかじゃないって泣きながら頭を撫でてくれた…初めて人を愛しく思えた瞬間でしたο今はあなたの寝顔を見ている時が一番幸せですο顔がにやけて自分でもおかしいくらいοこれが愛っていうもんなんだねο私を救ってくれてありがとうοずっとずっと死ぬまであなただけを愛し続けます
あげ
姉が4ヵ月前に自殺しました。鬱病で。姉とは喧嘩したままで去年から口もきいていなかったし 会ってもいませんでした。もちろん今年 生まれた私の子を見にきてくれたわけでもなく抱いてくれたこともなかった。私は姉が精神的においつめられていることをしらなかったので まーまたそのうち会いにきてくれると思っていました。6月19日 父の日に姉は首を吊りました。私は姉の元へいそいでいきました。ベッドの上て冷たくなった姉を見て「なんで死ねの?なんで?」って何回も繰り返し言ってたみたいです。私の子供を姉の横に寝させ「意地はってたけど本当は会いたかったんだろ?抱いてやりたかったんだろ?」って母が姉に言うと姉の目から涙がこぼれました。お葬式の日に姉の持ち物の中に私と息子の写真を1枚入れてもらいました。葬式が終わった後、姉の旦那さんが私に「姉ちゃんが死ぬ数日前に言ってたよ!あのこ(私)が産んだ子は私の生まれ変わりだから ちゃんと育ててるのかな?大丈夫かな?自分の妹を心底嫌いになれるわけないじゃん!」って…
私って最低な妹だよね?姉ちゃんのこと助けてあげれなかった。たった一人の妹なのになにもしてあげれなかった。ごめんねの一言がいえなかった。ごめんね 本当にごめんね。
もし姉ちゃんが私の事許してくれるんだったら私の元に生まれ変わってきてね。かならず幸せにする。 それと姉ちゃん私のこと心配してくれてたんだよね。ありがとう。
泣けるかは分からないけど…すごく嬉しかった話。
小6の時数ヵ月間学年中に無視されまくりだったけど、ある日皆の前で「今まで無視してごめん」って話し掛けてくれた人がいた!その人のおかげでイジメはなくなり友達とも仲直り。今は引っ越して疎遠だけど今でも感謝してるし、人間的に尊敬してます。あの頃はまだ幼くてうまく言葉に出せなかったけど…この場を借りて言います。本当にありがとう。
100?
かなり泣けました!
げ
あげます
あげ
あげます
良かった!本当に良かったね!
③私が3つの時の写真は無い… でも私と母と姉の全てがその時にある 写真には残っていないけれど… 今私は21歳。3歳の娘が居る。そして母は今その娘を抱きしめている。本当に幸せだと思う。 なんか悲しい結末のレスばかりだからハッピーエンドのレスです(#^.^#)
②上手く握れなくて家中御飯こぼして握ったのは今でも覚えてる ママが握るのとは違くていびつだったから恥ずかしかったけど「食べて」って言ったのも覚えてる 母と7歳だった姉は何故か泣きながら食べたのだって覚えてる でもあの時たった3つだった私は隠れて泣いた… ママもお姉ちゃんも居ない所で泣いたんだ 寝たきりだった母は私が散らかした米粒をはいつくばって拾ってた 「有難う」って言いながら… 苦しむ母を見て「ママが死んだら私も死ぬ」とお姉ちゃんはよく言ってたね 3つの私はただただ頷いてたっけ
げます
げ
①私が3歳の時母は寝たきりの病に苦しんだ。祖母も父も薄情な人達でそんな母を「怠け者!」と言い,3歳になったばかりの私と寝たきりの母,骨折して同じく寝たきりだった姉を置いて毎日仕事に行った。私は御飯さえ食べられずジュースさえ空けられず近所のお婆ちゃんに頼みに行くとお婆ちゃんは泣きながらジュースの蓋を空けてくれた。寝たきりの母をトイレにだって連れてった。パンツをおろしてナプキンかえた事もあった。途中で何度も母が倒れる度に恐くて泣いた。お腹が空いただろうと思い寝たきりの母と姉に3歳の小さい手でオニギリを握った…今思えばビー玉ぐらいだったと思う
あげます
マジなける
げ
両親が共働きだったためほとんど祖母と過ごしていました。大きくなるにつれ私は口うるさい祖母をうっとうしく思うようになりつらくあたってしまいます。祖母はどんどん歳を取り痴呆症になってしまいました。頑固できっちりした性格の祖母は自分が何もできなくなってしまったこと、何をしていいか解らなくなってしまったことが悲しく1人になると泣いています。淋しい、不安だと泣いています。そんな祖母を見ると私も涙が出ます。あまり好きではない祖母ですがそんな姿を見るのは悲しいです。辛く当たってしまうかもしれない。けど、どうか長生きしてください。
キャリアウーマンの姉が亡くなった時、母は、今度は仕事ばっかりじゃなくて、好きな人のお嫁さんになるんだよ、と、ウエディングドレスや靴、アクセサリー一式を棺に入れました。
そのウエディングドレスは、姉が亡くなった日に、母と私とダンナが、私の結婚式の時にお世話になった貸衣装店に、買いに行ったら、担当だった方が、母の思いを知って、一式プレゼントしてくれました。レンタル落ちの物だったけど、店員さんの気持ちが嬉しかったです。
先月、祖父を亡くしました。足が悪かったので外出をすることができませんでした。私が息子を出産し見せに行こうとしていた矢先の死でした。私は祖父が亡くなる前日にヘンな夢を見てそのことを母に言うとその夢は不吉なんだよ。誰かが死ぬっていわれてるんだよ…と言われました。まさかと思っていましたがその日の夜に祖父が危篤の知らせがありました。まだ息子を見せに行ってなかったので次の日急いで祖父のところへ行ったらすでに亡くなっていました。あと1時間でも早ければ…という状況で残念で仕方ありませんでした。そして初七日の頃でしょうか‥家にいたら突然、お線香の香りがしました。息子を見ると顔を左から右に誰かを見つめるようにそしてニコッとしていました。きっと祖父が会いにきたんでしょう。抱っこして欲しかったな…。
私は4人兄妹の末っ子です。しかし、兄と姉は私が産まれる前に亡くなりました。
姉は生まれて2時間後に亡くなりました。
原因は心臓の部屋が2つしかなかったからです。
生まれた時産声が聞こえなくて、父に「赤ちゃんは?」と聞きました。父は「今、綺麗にしてもらってるよ。かわいい女の子だよ」
と嘘を言いました。
姉が亡くなった事は母には産後3日目に伝えられたそうです。母はその時狂った様に泣き叫び、父に「ごめんなさい」と言っていたそうです。
兄は7才で亡くなりました。事故でした。
友達と木登りをして遊んでたら、足を滑らせ落ちてしまいました。兄は長男だったので、祖母から「お前が殺した。お前が死ねば良かった」と言われていました。
そのせいでアルコール依存症になり、まだ生後間もなかった姉を一時乳児院に預けていたそうです。
落ち着いた頃、母は私をみごもりました。
涙が出るほど嬉しかったそうです。「○○(兄)の生まれ変わりだ」と大切に育ててくれました。
今でも母は言います。「○○(兄)も亡くなった時、死のうと思った。けど死ななくて良かった。お前が生まれて、孫にも会えて幸せよ。ありがとう」と。