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不仲じゃないのに歓迎されない実家
14/08/02 20:18:22
図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。 四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。 そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。 四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。 池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。 全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。 私はもうたまりません。 Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。 そして見たくはなかったけど池を見ました。 真っ赤な池です。 その池に蓮の花が一輪咲いていました。 その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。 Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。 Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。 しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。 昼過ぎでした。 日本の飛行機が一機飛んで来ました。 日本軍が来たと誰かが叫びました。 ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。 それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。 悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。 その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。 実際に日本軍が来たのは翌日でした。 でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。 とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。 このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。 私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。 私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。 こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。 でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。 今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。 そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです
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No.41 あ
14/08/02 20:18:22
図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。
池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。
私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。
そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。
その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。
Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。
しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。
昼過ぎでした。
日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。
ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。
悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。
実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。
とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。
私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。
こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。
でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。
そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです
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