• No.3650 必ずしも全ての答えがあるわけではない

    25/09/16 12:35:28

    黒曜石のように艶やかな肌が、夕映えの光を受けて沈んだ湖面のように深く揺れていた。
    松崎しげるは、夏の終わりの庭に立ち尽くしていた。蝉の声は遠ざかり、どこかで子供の笑い声が弾んだが、それすらも夢の端に霞むように思えた。

    彼の声は歌であり、同時に祈りであった。
    どの旋律も、彼自身の影の色を宿していた。
    歌い終えると、空には冷えた月が昇り、庭の白百合がかすかな香を放った。
    その香りの中に、若き日の情熱や、過ぎ去った友との別れがふと甦る。

    彼は思った。
    肌の色も声の深さも、太陽の記憶そのものなのだと。
    だが、その太陽は沈み、夜に溶けゆく。
    そして夜は、美しく、残酷で、彼を包み隠す。

    月光に照らされたその姿は、ひとりの歌手である前に、一篇の孤独な詩のようだった。
    耳を澄ませば、彼の胸奥からまだ消えぬ旋律が、静かに、誰にも聞かれぬまま、夜気に溶けていた。

    その夜、松崎しげるは窓辺に腰を下ろした。
    カーテンの隙間から洩れる風は、どこか遠い海の匂いを運んでくる。
    彼の胸には、若い頃の舞台の灯が蘇っていた。
    黒い肌にあつい照明が降り注ぎ、観客のざわめきが星座のように瞬いた。

    ――あの光は、まだ自分の中に燃えているのだろうか。
    そう問いかけるように、彼は声を洩らした。
    それは歌ではなく、ひとすじの吐息にすぎなかった。

    けれども、吐息はやがて旋律に変わり、
    旋律は、過ぎ去った恋人たちの影を呼び寄せた。
    白い浴衣の少女、夏祭りの夜に微笑んだ人、
    そして、別れ際に言葉も残さず去った面影。

    彼の歌は、誰に聴かれるでもなく、
    夜の湖面に落ちる月明かりと溶け合っていった。
    しげるは静かに目を閉じた。
    暗闇の底で、声と記憶と孤独がひとつに重なり合う。

    やがて夜明けが近づくと、
    鳥の声が、彼の歌を追い越して空を満たした。
    松崎しげるは、立ち上がり、鏡に映る自分を見た。
    その肌はまだ黒く輝き、瞳には確かに光が宿っていた。

    彼はほほえみ、
    「私はまだ、生きて歌う太陽だ」
    と心の奥で呟いた。

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