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- 23/06/04 15:42:49
故ジャニー喜多川氏の性加害が、今やテレビを含む多くのメディアで問題にされている。告発は何十年前からあったが隠されてきた。真相は究明されるべきだし、究明されるだろうが、見逃されている問題がある。
【写真】芸能人が「クスリとセックス」に溺れるまでの全真相
それは、隠されてきたという権力構造が日本のテレビをつまらなくしたことだ。
ジャニー喜多川氏が性加害を隠すことができたのは、マスコミがジャニーズ事務所に盾突けば、様々な面で不利益を被ると考えてきたからだ。
所属事務所のタレントを回してくれなくなると、それでは視聴率を取れない、番組を作れないという状況に陥ってしまう。
しかし、本来、番組を作るのは各局のプロデューサーであり、スタッフである。
制作スタッフが、どんなドラマをつくるかを企画し、脚本家、演出家を決め、出演者を選び、補助のスタッフを選んで作るのが番組というものだ。歌謡番組でもバラエティ番組でも同じこと。
しかし、プロデューサーよりも芸能プロダクションが強大な力を持つようになった。するとどうなるか。
出演者は題材に相応しい人ではなく、芸能プロの「押し」の人となってくる。主演でなければ、ますます芸能プロの言いなりになってしまう。場合によっては、どんなドラマをつくるかも芸能プロが決めるようになってゆく。
「クオリティ」の責任は誰が負うのか
奇妙な配役も横行するようになる。
最近は異なるが、昔は、主人公の子ども時代に主人公と全く似ていない子役が選ばれていた。ハリウッド映画では、そんなことはありえないから、十分なオーディションができていなかったのだろう。
配役が限定されれば、演出家も脚本家もやる気を失ってくる。自分の作品ではなく、他人の作品になるからだ。
渥美清がいるから寅さんの映画『男はつらいよ』が作られたように、もちろん主演が決まって作品が決まるということもある。寅さん以前でも、俳優に合わせて映画の内容が決まるということは当然のことととしてあった。それは、あくまでも俳優が客を呼べるからだった。
演出家が惚れ込んだ役者のために作品を作ることもあった。これらはどれも、制作現場の思いが投影された配役だったのだ。
ところが、芸能プロの思惑通りに「売り出したい俳優」が押し込まれるようになると、演出家や脚本家の思いなどどうでもよくなってしまう。
さらに芸能プロの力が増せば増すほど「押し」が強くなり、ジャニー喜多川氏の好みの俳優ばかりになってくる。それでは、俳優の多様性を失わせるとともに、物語の多様性も狭めることになる。物語の登場人物に相応しいキャスティングができなくなるからだ。
制作現場が壊れていく…
ドラマを作ることを企業活動にたとえてみよう。
企業は、株主を筆頭に、消費者、労働者、販売先、仕入先、地域社会、様々なステークホルダーを持っている。しかし、最終的な損失は株主が負う。その株主の負託を受けて実際に会社を運営するのが、経営者である。CEO(最高経営責任者)は、プロデューサーであり、COO(最高執行責任者)は監督といったところだろう。
ところが、いまのテレビ局と芸能プロの関係はこの原則を捻じ曲げている。
外部の人間である芸能プロが配役をコントロールすることは、「企画部長はナカイにしろ、営業課長はキムタクにしろ」と言うようなものである。また、自由競争の市場に向きあう株式会社に、某官庁が省益の思惑を投影するかのように「社長はこの男にしろ」と言うのと似ている。
あるいは、熾烈な世界競争を戦っているトヨタに対して、傘下の部品メーカーのデンソーが「俺たちの利益のために、この部品を使え」と強制するようなものかもしれない。
そんな横やりに従っているような企業は存続できないだろう。
一方で、市場の力学は‟部品“を強制する一面をもっている。
たとえば、パソコンではソフトも部品もほとんど選びようがない状況に追い込まれている。あまりにも高性能かつリーズナブルな価格なので2~3の選択肢しかないからだ。電気自動車でも、蓄電池とモーターの選択が数社に決まってしまう時代になるだろう。しかし、それは「高性能」かつ「価格合理性」という機能的な理由で選ばれた根拠の伴う結果である。
ところが、芸能プロの場合には、役者の性能とは関係のないところで、不思議な力で横やりを入れている。
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