元治
甚大な被害に見舞われた東日本大震災から8年半。W杯の釜石開催は被災地を含む多くの人の熱意によって実現した。
NPO法人の活動などを通じて復興支援に取り組んできた宮城県気仙沼市出身の大友信彦記者が、W杯開催に尽力した人々の思いを伝える。
ゴール裏のスタンドに体操着姿で陣取り、「ガンバレ、ガンバレ」と手をたたき続けたのは、幼稚園児から高校生までの地元釜石の子どもたちだ。
地球を半周してやってきたウルグアイにも、札幌での前戦から中3日の強行日程で悲哀にくれたフィジーにも、1万4025人の観衆は等しく優しく、温かい拍手を送った。
W杯日本大会12会場で最も小さいスタジアムは、同時に最も温かいスタジアムだった。
「ここまで来る電車の中で、たくさんの人が楽しそうに地元の言葉でしゃべってるのを聞いて、みんな楽しみにしてたんだなとうれしくて、涙が出そうになりました」と言ったのは震災時、釜石高3年生だった女子日本代表の平野恵里子だ。
この日はチームのオフを利用して横浜から故郷に駆けつけた。
「大事なのはこれから。その思いは変わらないのですが……今日は本当に楽しかった」と言ったのはW杯釜石招致に尽力したNPO法人スクラム釜石の石山次郎代表だ。
「駅から歩いてくる間、初めて会う人同士がハイタッチしたり、写真を撮り合ったり、子どもたちがはしゃいでいたり… 何もなかった8年前を思うと、よくここまで来たなと驚きます」
津波の被災地に作られたスタジアムでのW杯。試合前には黙とうが行われ、スタジアムは静寂に包まれた。
被災地の復興は、まだ半ばだ。招致には反対の声もあった。スタジアムが負の遺産になるのでは…。
だが、そんな声にあらがうように、若い世代がW杯を盛り上げた。
釜石高3年の洞口留伊さんは「私は小3で震災を経験して、勉強道具もランドセルも全部流されたけど、世界からの支援で勉強を続けられた。W杯でその感謝を伝えたい」と話す。1年前には、スタジアム開場試合でキックオフ宣言を読み上げた。
ここまでの1年間に高校生同士で、交通案内の動画をつくって配信したり、寄付を募ったりするプロジェクトを立ち上げた。
「W杯が来ることで、釜石の町はここまで復興できました」
一過性のお祭りではない。人を育て、地域をつくる―。
釜石でのW杯は、スポーツイベントの持つ大きな力を示してくれたと思う。
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