- なんでも
-
>>269
広島のばっちゃん↓これだ
「ばっちゃん、腹減ったー」
広島城を見下ろす広島市営基町高層アパート。日が暮れるころ、14階の2DKの部屋に、剃り込みを入れたり派手なチェーンネックレスをつけたりした少年たちが集まってくる。
「おかえりー」
この部屋で一人暮らしをする中本忠子(ちかこ)さん(82)が、少年たち一人ひとりの顔を見ながら笑顔で応える。久しぶりに顔を見せた子には「ちいと痩せたが元気にしとったんか」と声をかける。
9~22歳の子どもや若者が1日3~10人ほど訪れ、食卓を囲む。食べ盛りの少年たちはできたての親子丼や煮物を勢いよくかきこみ、次々におかわりの手を伸ばす。おなかが満たされると、お茶を片手に中本さんとおしゃべりし、自宅のようにくつろぐ。
「ここに来る子いうたら、親が薬物依存症、刑務所を出たり入ったり、虐待、ネグレクト……まず普通の家庭の子は来んけんね。食べることは毎日のことじゃけ、ばっちゃんは盆も正月も休めんのよ」
中本さんはそんな生活を34年間続けてきた。 1934(昭和9)年、海軍工廠に弁当を納入する会社を営む父と、料理が大好きな母の長女として、広島・江田島で生まれた。21歳で結婚。3人の子を授かったが、末の子が生まれた直後に夫が心筋梗塞で急死した。父親の記憶がないほど幼かった子どもたちを女手ひとつで育てた。父が戦後始めたセメント加工会社で、事務、営業、配送と何でもこなした。
46歳だった80(昭和55)年、中学校のPTA役員になった。警察に補導された生徒らを忙しい保護者の代わりに迎えにいくうち、親しくなった警察官から「保護司になりませんか」と勧められた。保護司とは、保護観察処分になった少年の更生を助けるために法務大臣から委嘱される地域ボランティアのことだ。中本さんは「よくわからんけどええよ」と快諾した。
2年後の82年、シンナーをやめられない中学2年の男子生徒を担当した。骨と皮だけのような体に、真っ青な顔。髪や服にまでシンナー臭が染み付き、誰も近寄ろうとしなかった。
袖の中に隠し持ったシンナーを手放すよう説得を試みるが、うまくいかない。あるとき、「なんでそんなにやめれんの?」と尋ねた。予想もしなかった言葉が返ってきた。「腹が減ったのを忘れられるから」
少年は母子家庭で、アルコール依存症の母親から食事を与えられていなかった。中本さんは振り返る。
「すごい衝撃よね。食べられない子がいるなんて考えてもいなかった」
空腹に気づけなかったことを詫び、その日から少年のご飯をこしらえた。少年はシンナーをやめ、同じような境遇の友人を中本さん宅へ連れてくるようになった。瞬く間に行き場のない子たちであふれ、玄関に納まりきらない靴がアパートの廊下にまで積み上げられた。その光景に驚いた近所の田村美代子さん(68)が手伝うようになった。
当初、毎月10万円にのぼる費用を生活費を切り詰めて捻出していた。10年後には、活動が知られ始め、民間財団や共同募金会から支援を受けられるようになった。それでもすべてをまかなえるわけではないが、子どもから徴収することは決してない。
「今、子ども食堂(※)が全国に広がりつつあるけど、お金を取りよるところもあるでしょう。うちに来るのは帰りの電車賃もバス代もない子じゃけん、数百円でも取ることはできんわね」
食うや食わずの状況で、片道10キロ以上の距離を歩いてくる子もいたという。
あまりの空腹のせいか、食べ物を喉元まで詰め込むような異様な食べ方をする少年もいた。
「その少年を連れてきた子にあとで聞いたら、『あいつは俺を万引きに誘いにきたんじゃ。けど、腹いっぱい食べたら万引きする気がなくなったって帰ったよ』と言うとった」
※子ども食堂:子どもたちに無料あるいは低価格で食事を提供し、子どもの「居場所」をつくる活動。ボランティア団体が主宰するケースが目立つ。
※週刊朝日 2016年4月1日号より抜粋
- 8
18/05/20 20:46:30