- なんでも
- 棒引き
- 16/10/12 09:49:59
それは不自由さから自由を、反面教師から学びを、様々な場面で大変な出来事も、その裏にある自由を知るために、自由を得られるためのものだという確信があり、全ての出来事が愛で構成されているという感触をおぼろげながらも感じ取れている。
胸に手を当て、空気もすべて原子レベルで愛で構成されているとイメージすると、何1つ欠けることのないワンネスを身体全体で感覚的に理解し、これが愛なのだろうと、愛以外ないという確信を持つ。嫌なことも良いことも何もない。穏やかで満たされている感覚。
何かを得ないとダメなんだとか、何かを求めないとダメなんだとか、特定の状況が引き起こされないと幸せになれないんだとか、頭の中では思っていた。
しかし、今日の私は、ある記事を読みながら、教えてもらった通りしてみると、今ここにある愛で満たされていた感覚だけで、すでにそれで良い、と思えた。
胸に手を当て、原子レベルでの一つ一つのエネルギーが愛で構成されていることを感じながら、そして私をつくりあげている一つひとつの細胞にも愛がぎっしり詰められている感覚を捉えながら、胸からジワジワ出るエネルギーが、穏やかで優しく、でもハリのある感覚があった。
こうなってしまうと、幸せという言葉さえも、二極化の一つに過ぎないと思える。
幸せさえ、ひとつの解釈なのではないかと。この感覚は幸せなのだが、幸せという言葉が今まで何かがあって幸せなのだと思う感覚に引きずられてしまうので、そうではないと言いたくて、幸せという言葉でこの感覚を表現したくない私がいる。
私の感覚としては、幸せと不幸、その二極化した意味さえひっくるめた、揺るぎなき大いなる存在からのエネルギーなのだと確信している。
どんな状況になったとしても、この大いなるエネルギーに満たされて生きれば、私ももちろん、皆さんにも愛を永遠にシェアできる、溢れんばかりのエネルギーを与えることができる。
確信という言葉さえも弱い。大いなるエネルギーがそこにあり、状況に左右されず、ただそこにあり、それが当然なのだ、という当たり前の感覚。
すべて愛で満たされていて、一つひとつがキラキラして、生きるもの全てが愛おしく感じる瞬間を生きているんだと、これが今までもそうだし、これからも当たり前なんだと気づいた。
気づいた途端に、一人ひとりに愛を持って関わりたいという衝動がとめどなく溢れてきた。役割として関わるのではなく、ここにいる偶然ではない必然の意味を知っているかのごとく、一人ひとりのかけがえのない存在をただ敬い、労う気持ちが溢れてきた。こんな気持ち、前からあったのかもしれないけど、今日ほど実感した日はない。
恐れもない、この感じ。恐れは妄想だった。妄想で作っては、こうしなければならないという私へのイジメだった。
何事も自由だ。
自由とは、こうしなければならないということがないということ。だから、気まぐれでも、誠実でも、無邪気でも、頑固でも、バカでも、知的でも、すでに私は愛されているんだという確信だ。
しなければならないことをしたくなければ、したくないといい、しなければいいだけ。
つまり、しなければならないなんて、誰が決めたの?ということ。世間体や常識は自由を責めている。それは自由はワガママで、人に迷惑をかけると。果たしてそうだろうか。
今この瞬間のように、愛に満たされた状態にあるなら、私利私欲の道にはいかない。
ワガママとは我がしかない状態。
愛が溢れていることの世界でのワガママは、愛を波及するワガママだと思う。その意味でのワガママは素晴らしい。
私利私欲は愛ではない。
自己愛の究極的な形は、関わる相手を心から愛してこそ達成できる、そこに存在しうるもの。
愛を感じ、愛を満たしている感覚の中では、人のワガママは、美しく綺麗で歯切れのいい素敵な出来事を生み出すエネルギーとなる。
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