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- かき氷
- 16/08/12 19:26:07
故・相澤秀禎氏が創業し、1968年にスタートした小さな芸能事務所・サンミュージック。
はじめて福田時雄名誉顧問(86)が「仕事を辞めたい」と思ったほど、悲しく、つらい出来事があった。
84年にデビューして「ポスト聖子」と期待された岡田有希子が自ら命を絶ったのだ。
「あれから30年も経ったが、有希子のデビューのころの生き生きした姿は今も目に焼きついています。
私の中では、時間が止まったままなのです」
有希子は中学2年のときに日本テレビ「スター誕生!」に応募し、翌年、名古屋地区予選に出場した。
そのころのスタ誕の予選は審査員による点数付けではなく、プロダクションやレコード会社の担当者が客席で「いい」と思ったらボタンを押し、その数が基準に達したら合格というシステムになっていた。
予選会場にいた福田氏は有希子に対して「桜田淳子に通じるオーラ」を感じた。
「有希子が会場に出てきた途端にいいと思い、ボタンを押しました。
周囲にも“ほら、ボタン押して押して”と促したほどです。
デビュー当時、福田氏は有希子を連れ、仙台にある所属レコード会社の営業所へ挨拶に訪れたときのことが忘れられないという。
「有希子は『恋人のいらっしゃる方は3分の1、奥様のいらっしゃる方は4分の1で結構ですから有希子に愛情をください』と言いました。
こんなことを話した子は初めてでした。独身の男性社員が『僕は100%です』と言いだし、大変、盛り上がりました。
その後、札幌に一緒に行ったとき、彼女が街を歩いていたら雪でステーンと転んだ。
大丈夫かと見たら、しばらく有希子は仰向けに寝たまま、『星がきれい』と言っていましたね」
念願のデビューを果たした有希子は歌や踊りのレッスンをがんばり、ルックスの愛らしさも話題になった。
同期には荻野目洋子や菊池桃子、吉川晃司などがおり、賞レースで競ったが、有希子は周囲に気を使う“繊細で優しい面”があった。
「不思議な子でね、新宿音楽祭など金賞が2組ある賞を取るとニコニコしていたのに、1組しかもらえない賞だともらっても浮かない顔をした。
どうしたんだと尋ねると、私がもらったら他の歌手のファンに悪いなんて言ってました。
有希子はレコード大賞最優秀新人賞を取りましたが、この賞を取れたのは、うちでは他は桜田淳子だけ。
(松田)聖子も取れなかった。“最優秀”はなかなか取れないのです」
だが、そんな有希子は86年4月8日の昼すぎ、突然、自ら命を絶ってしまった。
福田氏は少し苦しげに、当時を振り返った。
「その朝、(創業者の故・)相澤(秀禎)から『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。
駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた。
ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。
幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると、
事務所がいいと言うので、四谷へ向かったのです」
当時、有希子はデビュー2年目。8枚目のシングル「くちびるNetwork」(作詞Seiko、作曲坂本龍一)が初のチャート1位をとり、ポスト聖子として人気は絶頂だった。
3月末に高校を卒業し、4月に下宿していた相澤氏の家を出て、念願の一人暮らしを始めたばかりだった。
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。
しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。
その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです」
有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨んだ。
「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部、答えようと相澤と話し合って臨みました。
俳優との交際も原因ではないかと記者らに問われましたが、真相はわからない。
私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ。彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。
相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160810-00000212-sasahi-ent
dot. 8月12日(金)11時30分配信
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