- なんでも
- 真愛
- KDDI-SA31
- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
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あげ
あげ
あげ
感動しすぎて涙が止まらない…。
胸が痛い
ここまで泣けるとゎ…寝る前に読んでしまった。頭ガン②目も鼻もヒリ②…
切ないですね(;;)
先日、4歳のいとこが机の引き出しを開けて遊んでいたら、ピンクの紙切れを見付けました。ばあちゃんが見てみると、私が小学生の時じいちゃんに宛てた手紙でした。
じいちゃんは肺癌で手術を繰り返していました。その何度目かの術後入院しているときに書いたようです。私は書いたことを忘れていたのですが、手紙にはじいちゃんの絵と、みんな待っているので帰ってきてと繰り返し書いていました。
じいちゃんは癌と最後まで戦い7年前に亡くなりました。今年はじいちゃんの法事です。じいちゃんの法事の直前に手紙が見つかるなんて、偶然ですがうれしかった。じいちゃん、手紙は仏壇にそなえるからね。曾孫抱いてほしかったよ。天国でずっと私たちを見守っていてね。
皆さんの話、泣けます…
私もおばあちゃんがいました。厳しかったけど優しかった。共働きの両親の代わりにいつも側にいてくれました。
その後、入院。私は日々痩せていくおばあちゃんにショックでお見舞いに行けず母によく叱られました。
でも毎日仕事の行き帰りにおばあちゃんの部屋の窓が見える道を通り『早く良くなってね』と祈っていました。
亡くなる前日、たまたま母とお見舞いへ。意識ももうろうとしているはずなのに、帰り際急に私の手をとり『ありがとう』と言ってくれました。
それが最後の言葉だったそうです。
もっと会えばよかった…ごめんね…
もう…鼻水すごいし目は腫れまくり。
あー泣いた!
当日中3の春私ゎ荒れてて親トカ先生トカ本当に嫌いで学校にもまともに行かず遊び回ッてました…そして中3の夏生理が来ない事に気付き保健室の先生に相談…少し様子見る事に9月に入リパンツが少し汚れるくらいの不正出血があリ…生理かな?と安心していました。そして生理なンて気にかけず2ヵ月が過ぎ11月になりやはり生理が来ない事に気付き先生に相談…検査薬で調べ…妊娠していました。その事を先生に伝え即お母さんが仕事場から学校へ呼び出され 保健室の先生 生徒指導の生徒 私と母で話す事に…私ゎずっと泣きじゃくっていたので先生が母に事を説明してくれました。その時私ゎ殴られると思ッていたら母ゎ起こりもせず…ただ涙を流し『気付いてあげられなくてごめんね。』と謝ッてきたのです。そして次の日母に付き添われ病院へ行きました。エコ-で見るものの赤ちゃんがいる袋ゎあるのに姿がなかッたのです。蓄溜流産していたのです。私ゎ何の事かさっぱりわからず手術の説明も頭に入りませんでした。
そして学校へ連絡…その時先生に言うわれた言葉が…
赤ちゃんゎ空の雲の上から私達を見てて〇〇(ワタシ)が彼氏との赤ちゃん欲しいなあッて強く願ったから来てもいいのかな?ッて思ッて降りてきちゃったんだよ(>_<)でも赤ちゃんゎなんか違ったかな?ッて気付いてお空に戻ったんだよ!また〇〇のお腹に戻ッてくるからその日まで素敵なママになる為に頑張ろうね?
と言ってくれました…。
母も最後まで私を一言も責めなかったです。今私ゎ17才で3ヵ月娘のママをしています。旦那と本当に幸せです。
なかなか言葉まとまらず長文・乱文すいませんでした(;Д;)
父が糖尿病を患って、足を切断しました。
車や登山でプロだった父から全てを奪った病気は、術後の経過もいいのに気力までも奪い、体力自慢の父を死に追いやりました。
ある日、私は父の病気で陰気だった家を抜け出す為に一人でのドライブを計画しました。
それを知った父は私に一緒に連れて行ってくれと頼みました。なのに私は父と一緒だと車椅子や介護が面倒だと言い、頭を下げた父をうざがり一人で行きました。
厳格で強い父が私に頭を下げた…嫌でした。強い父しか知らない私には辛すぎて受け入れてあげられなかった。
一番辛かったのは父なのに。
「寿命には逆らえないよ」と捨てセリフを吐き、その夜は父とケンカしたまま就寝し、翌朝出勤の時に父の部屋に向かって「いってきます」と言い、返事がなくまた「返事くらいしろよな」と暴言を吐きました。
もしあの時、襖を開けていたら助かったかもしれない。
ドライブに一緒に行けば死ななかったかもしれない。
寿命には逆らえない、て言ったから?
大好きだったパパにあんな言い方してごめんなさい。
私、ちゃんと車とスキューバのライセンス取ったよ。スキーも指導員の資格取った。約束した槍ヶ岳にも登った。三国志全部読んだ。
去年息子が生まれたよ。山にちなんだ名前を付けた。
パパに教わった事全部、息子にも私が教えるから。
あんな事言ってごめんなさい。
自己満足の長文乱文失礼しました。
やばい、鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃ…
みんなの読んでたらじいちゃんのこと思い出しちゃった…
じいちゃんはお酒が大好きでした。毎日飲んでは私や妹を相手に永遠とよく分からない話をしていました。
私が小学生だったある日じいちゃんに『ワシは早よぉ死んだほうがええじゃろ?こんな酔っぱらい邪魔なだけ』と言われ幼かった私はじいちゃんがそんなことを言い出したことが悲しくて何も言えずに涙をこらえるのが精一杯でした。
中学3年の時学校から帰ると誰もいなくて母からじいちゃんが脳梗塞で手術を受けたと言われました。
その日以来じいちゃんは機械につながれ意識が戻ることはありませんでした。私は昔じいちゃんに『死んだら駄目』って言えなかったことが引け目に感じて病院に行けませんでした。じいちゃんの様態が悪くなりだし母さんに病院に連れて行かれました。ベッドに横たわって機械につながれたじいちゃんは誰か分からないほとやせ細っていて涙しか出ませんでした。
それから2ヶ月後じいちゃんが危篤という連絡を受け病院に行きました。家族がみんな揃った時母が『父さんもう頑張らなくていいよ。ゆっくり休んで』と言うと機械の音が段々ゆっくりになっていってじいちゃんは亡くなりました。
大好きだったじいちゃん私は今でも後悔してるよ。あの時ちゃんと『死なないで』って言えばよかった。もっと沢山病院に行けばよかった。ごめんなさい。
もっと長生きしてほしかったよ。曾孫の顔見せたら喜んでくれただろうなぁ…
長文失礼しました。
去年の話しです。私は結婚して5年になります。主人は1つ上です。子供も2人授かり仲良く生活してました。去年の春頃、主人はいつも通り車で仕事へ行きましたが5分後に忘れ物を取りにかえって来て出掛けました。主人が仕事へ行ってから30分後位に警察から電話が来てダンプとぶつかり病院へ運ばれましたので至急来て下さいと言われ子供を預け向かいましたが即死でした。ダンプの居眠り運転でした。事故の大きさを示すように主人の傷はすごかったです。お葬式も終え初七日が終わり主人の言っていた事を1つずつ行動にしてきました。病院で検査を
したら妊娠5ヵ月でした。下の子が生後7ヵ月でしたので生理が来てなくても気にも止めなかったけど主人に病院に行ってきてと頻繁に言われてました。
生前に報告出来なくてごめんね。3番目も今では1歳になりスクスク育ってます。まだまだ立ち直れませんが前向きに生きていこうと思いました。長文読んでいただきありがとうございました
私のおじいちゃんは田んぼと畑が大好きな人でした。お米はもちろん、野菜も果物(イチゴ)も作っていました。兼業農家だったので朝4時に起き田畑へ行き、それから夕方まで近くの木材工場へ仕事に行き、仕事が終わるまた田畑へ。休みの日はずーっと[〇〇よ、〇〇よ]と相手をしてくれ一緒に田畑へ行ったり花を植えたり…すごくマメな人でした。そんなおじいちゃんが最初に倒れたのは私が小学校3年生の時。疲労で倒れ検査したら胃潰瘍が発見されすぐ入院し手術。会社の健康診断ではずっと異常がでてひっかかっていたそうなんです。でも大丈夫、家族が心配するから…と隠し続けていたみたい…
それからしばらくして癌が見つかり治療を続けていましたが私が中学生になった頃から入退院が頻繁になりはじめました。私は癌だなんて一言も聞かされず知らなかったので退院して家に居るおじいちゃんに甘えたり、わがまま言ったり…
高校へ入った頃にはほとんど病院で過ごしていました。お見舞いに行くと薬の副作用でしんどいはずなのり元気な姿を見せようと話てくれたり小遣いくれたり…
でも見た目ではもともと細いおじいちゃんが更に痩せ細っているおじいちゃんを見るのが辛くてそれからお見舞いには行きませんでした…
私が18歳の時のバレンタインの日。バイト中に[おじいちゃんが危ない]と母から電話がありすぐにかけつけましたが私が着く5分前に息をひきとりました。
病室に入った時、すごく綺麗な顔だったから[おじいちゃん寝てるの?]と聞いた私に父が[うん。そう]と涙を流しながら言いました。信じられなくて泣き崩れた私をずっと父は抱いていてくれました。
最後まで田畑の話をし、家に帰りたい、〇〇(私)は元気か?〇〇(13才下の妹)は大きくなったか?と言っていたそうです。
もっとお見舞いに行けばよかった、もっともっと話したかった…後悔ばかりです。
あんなに可愛いがってくれたおじいちゃん…
ありがとう。ごめんなさい…
私ももう22才になり、今では2人の母になりました。おじいちゃんに抱いて欲しかったよ…
頑張って立派に育てるから見守っててね。
長文失礼しましたm(__)m
こっちもあげ。
げ
暇なので荒らし反対あげ
㊤㊤
泣けるというより、せつないお話しです。
私が小学校5年生位の時の話し。当時私は私立の学校に通っていたため電車での通学をしていた。その日も朝のホームで電車を待つ間、私はベンチに座りその日学校で友達と交換するはずだったシールを拡げて眺めていた。すると『それ、かわいいね』と誰かが声をかけてきた。見るとそこにはいかにもヤ〇〇風という様な怖い感じの中年のおじさんが立っていた。ビックリした私は何も言えずに固まってしまった。するとおじさんは少し寂しそうな顔して去って行ってしまったので、私は子供心に『悪い事したな…』と思い、おじさんを追い掛けさっきまで眺めていたシールを『あげる』とおじさんに差し出した。一番気に入ってたキキララのシール。おじさんはそれを『いいの?』と嬉しそうに受け取った。その笑顔はとても優しかった。その後おじさんと他愛もない会話を多少繰り返した後、ホーム内に電車到着のアナウンスが流れた。
それだけ?何が、どこが切ないの?意味不
するとおじさんが『危ないから下がってなさい』と私に言った。私もこの電車に乗りたかったので『??』と思いつつも、おじさんがあまりに注意するので、おとなしくホームの中央まで下がり電車が来るのを待った。間もなくホームに電車がやって来たその時…おじさんは吸い込まれる様に線路へと飛込んで行った…。―翌日、新聞でおじさんの事が載っていた。やはりヤ〇〇関係だったそう。それを見て興奮した様子で話す母に私は怒りを感じたのを覚えてる。
自動車学校をさぼり、母に電話で嘘ついて彼氏の家に泊りに行った。
母は『今日は帰ってきなさい!』と怒ってたけど、言うことを聞かない私に『もう!』っと電話を切ってしまった。
彼氏の家に2日泊まって、月曜の朝家に帰るとき、家の手前で救急車とすれ違った。近所の人がさわいでて、家は空っぽだった。
救急車に乗っていたのは母だった。脳内出血だった。夜には医師に今夜が山だ、意識はもうもどらないと告げられた。
3日後母は意識もないまま静かに息をひきとった。
当時の彼氏とはまもなく別れた。母に嘘ついてまで会う必要はあったのか?最後の会話で嘘ついたこと。あのとき言うことを聞いていれば母を助けてあげられたかも知れない!
人生最大の後悔だった。
お母さんごめんね。お母さんの言うことはいつも間違ってなかったのにね。わかってたのに、わかってたのに素直に聞けなくて、それが私の悪いところだってのもわかってたよね。
ごめんね。お母さんに会いたいよ、もう一度話がしたい、娘も見せてあげたかった、お母さん小さい子供大好きだもんね、自分の孫ならどんなに可愛がるか。今お母さんが生きてたらどんなにいいか…
お母さん。
あげ
私が15歳の頃の話しです。
家のベランダにベタベタするねずみ取り?が置いてありました。そこにスズメがくっついてしまいかわいそうなので私ががんばって洗ってあげました。
ベタベタがなかなか取れず飛べなくなってしまったので私とおばぁちゃんが飼っていました。
おばぁちゃんがある日スズメをヒナタボッコさせてあげようとベランダにカゴごと出してあげていましたそしたらカラスに襲われスズメは食べられてしまいました…。すごく悲しくておばぁちゃんのせい!大嫌い!とケンカをしてしまいました。おばぁちゃんは謝ってくれたんですが、もういいっ!って言ってしまいました。
その翌日ぐらいからおばぁちゃんは体調を崩し寝たきりになってしまいました…。
おばぁちゃんはみんなに『ありがとうね』と何回もいいました。
その翌朝に誰も気付かないほど静かに息をひきとりました。
ケンカなんかして冷たくしなければよかった…おばぁちゃんはスズメのためにしたことなのに…と後悔しています。
ごめんね、おばあちゃん…ありがとうおばぁちゃん☆かわいいおばぁちゃん本当に大好きだよ。
長文、まとまらない文で申し訳ありませんでした。
21才の時、母が入院した。飲食店を経営し、お客さん皆から好かれていた母。
体調を崩しながらも入院するまで店を休まなかった。入院し、検査が1日の間に次々とおこなわれ、結果、腎臓癌。
医師からは3ケ月もたないかも。と言われ父・姉・私3人で泣いた。
色んな病院に検査結果を持ち込み見てもらったが…
1週間後、母眠りについた。
口やかましく、厳しかった母。もぅ私は24才。8ケ月の♂のお母さんになったよ!
抱っこしてほしかったな。まだまだ色々教えてほしかったな。
いなくなった母に今頃、感謝しても仕方ないけれど、
彩を産んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
彩もお母さんみたいな母親になりたいな。
いっぱいありがと&#x{11:F9ED};
おじいちゃんの話。おじいちゃんはダムを作っていて、家にはほとんどいなかった。たまに帰ってきても、酒を飲んで暴れるような人だった。でも孫には本当に優しくて、私は優しいおじいちゃんの顔しか見たことがない。
そんなおじいちゃんが入院した。癌だった。中一の修学旅行の時、母に『おじいちゃんに何かお土産買ってきてあげなよ』と言われたので、イルカの小さな置物を買ってきた。おじいちゃんは凄く喜んで、お土産の何倍ものお小遣いをくれた。一時退院したものの、一年後再入院、大好きだったおじいちゃんは亡くなった。
去年、里帰りした時おじいちゃんの話になった。母が「あんたに買ってきてもらったお土産、凄く大事にしててね…病室のTVの上に置いといたんだけど、少し向きが違うだけで怒ってたよ。大部屋から個室に移動した時、何かにぶつかってヒレが一つ折れちゃって…ママ凄く怒られたんだからね」って言ってた。私は当時母に言われたから買ってきた…くらいの意識しかなかった。もっと考えて買えば良かったな。
昔の荷物を開けていた時、その時におじいちゃんがくれたお小遣いの袋がでてきた。震える字で【〇〇ちゃん(私)修学旅行楽しかったでせう。お土産どうもありがとう】と書いてあった。またおじいちゃんに会いたくなって号泣してしまった。
おじいちゃん、私は今おじいちゃんが作っていたダムのすぐ傍に住んでるんだよ。こんな遠いのに、すごい偶然。最近になって知ったんだ。おじいちゃんが見守ってくれてるみたいで、嬉しかったよ。またチビ連れてお墓参り行くからね。
長くなってすみません。
母が3年前になくなり、
2年前に姉が結婚。
1年前に私が結婚。
残された父。
そんな父に食道癌が発覚。
毎年のように家族が離れていき、寂しかったと思う。
1年の闘病生活。
とても気が弱く、弱音ばかり。半日に及ぶオペ。術後一番つらい時に冷たくあたってしまった私。
もっとやさしくしてあげれば良かった。
術後1ケ月、急に吐血し、急変。そのまま眠りについた。
たった1人で、、、そばにいてあげたかった。
ごめんね。。。
本当にごめんね。。。
今頃は天国でお母さんとビール飲んでるんかなぁ?
お父さん、お母さんに孫の話、してあげてや&#x{11:F9C6};
姉の子、アキナ・彩の子、澪
姉ちゃんと彩は世界で一番仲のいい姉妹だよ!だからなんの心配もいらんよ!
アキナと澪、ずっと見守ってあげてな!!
お父さん:お母さん
姉ちゃんと彩を産んでくれてありがとう。
パパとママの子で良かった!短い間やったけどたくさんの愛情、ありがとぅ
ゆっくり休んでね。
あげます
泣きすぎちゃって頭いたいヨ
もう朝だ…(;´д`)
泣きすぎてひどい顔だ…
ビールとタバコが大好きだったお父さん。わがままで自己中でエロイところもあったけど、お母さんが大好きだったお父さん。小さい頃から毎年色々な所に家族で行ったね。
私の子供が産まれて6ヶ月経ったある日、いきなり食べ物が喉を通らなくなって吐いてたね。病院に行ったら結構進行した食道癌…。
2ヶ月後、12時間にも及ぶ大手術よく頑張ったね。1ヶ月後には自宅療養出来る程までになって、家に帰ってきたね。食道を取ったから、声はかすかにしか出なくなったけど、手術する前よりは全然元気になってた。病院から帰ってからはわがまま言いたい放題だったからケンカもしたね。治る物とばかり思ってたよ、皆。
痛い痛いと右肩を押さえて歩いていた映像が今でも鮮明に思い出される。癌が右の神経まで進行していて、右の半身が徐々に動かなくなっていったね。字も書けなくなって、はしも持てなくなって…お母さんが仕事の時は私がご飯を食べさせてあげた。ご飯を食べる量も徐々に減っていき…一階まで降りてきていたのに、だんだんとトイレにも起きれなくなっていったね。そんな姿を見るのが本当に辛かった。
入退院を繰り返して、三回目の入院。ご飯が食べられないから点滴で過ごしていたね。ずっと寝たきりで床ずれも出来始めてた。
『あと一ヶ月持つかわかりません』そう母が言われたのは夏の終りだった。父はその次の日の朝早く、病院で一人で息を引き取った。妹から電話で聞いた時は、嘘だろうなと思ったよ。
ちょうどその日は娘の一歳の誕生日。お父さんは苦しかったけどその日まで頑張ってくれた。
帰っても、しばらくは冷たくなったお父さんの顔は見れなかった。涙は出なかった。
後からわかった事だけど、お父さん、家族のために遺族年金など沢山保険に入ってたんだね。自分の給料はほとんど自分のおこづかいにして、自分がしたい事ばかりしてきたお父さんが、家族のためにそんなに保険に入ってたなんて思わなかった。お金はイイから本当は戻ってきてほしいよ。
最近やっと実感が湧いて、思い出す度後悔でいっぱいだったり、涙が出たりするよ。でもよく痛い思いをして6ヶ月間頑張ったね。本当にお疲れさま。
ありがとうお父さん。私お父さんの娘で幸せでした。
げ☆
上げヾ(●^▽^●)ノ
今、妊娠中でイライラしがちで我が子に怒ってばかり。我が子から本当に悲しい顔しながらママごめんね。って言われた時。本当はママの方がごめんね。だよ
感動
今から3年前に祖母が末期の胆管癌と言われ症状を少しでも軽くする為に手術…それでも余命半年と宣告、その数か月後に私の妊娠が発覚!祖母に報告したら凄く喜んでくれました。そして宣告された余命を過ぎましたがまだ元気で曾孫の世話しな駄目だからって口癖でした妊娠八か月になった月に容態が急変、医者には曾孫さんの顔は残念ながら…の一言 しかし祖母の思いが強かったのか曾孫は10月8日に無事生まれ祖母もベット側に飾った曾孫の写真を看護師さん達に自慢してたそうです…モルヒネで誰か解らない位にボケてましたが私と曾孫だけは忘れて無くて。12月8日朝方に心臓が弱りだした為に親戚一同が病院へ何回も心臓が止まったりしてたんですが「もうすぐ○○←私が来るよ!!」の親戚の言葉で心臓が動いたりしてたそうです。私が病院に着いて祖母の口をレモン水で湿らしてあげ「バァちゃん、もう楽になって良いよ!有り難う」と声を掛けたら安心したのか祖母は息を引き取りました…曾孫が生まれた日と祖母が亡くなった日が月は違いますが8日同士ってのが祖母らしいな~って思ました。我が子は1歳になり祖母の遺影を見ては「バァバ!」って言って手をたまに振ってます。娘には見えてるのかな~
長文すみませんでした。
なけた
レスしていた「マルガリータ」さん。あまりにも高校の同級生のT君と言う人の話と似ていると思い読んでいて涙がとまりませんでした。
野球が好きだったし、命日といい、偶然かもしれませんが思わずレスしてしまいました。
みなさんトピずれすみません。「マルガリータ」さん。まだ見ていたらレスある事願ってます☆
私の旦那の話です。
あんま感動ぢゃないかも↓
旦那若干14才、名の知れたヤンキーだったそうです。(自称)
同じ学校のマドンナ的存在のお嬢と不釣り合いながら交際していた旦那。
彼女や仲間とたまっては男だけで暴走に行っていた。いつものように、彼女をコンビニに残し暴走に行き帰って来ると、いつも待っていた彼女の姿がない!!「何かあったんじゃ?」と仲間みんなで丸々2日探し続けた。
情報収集で分かった事。ヤカラに(やくざ)連れ去られて、監禁レイプされている事‥
旦那は木刀片手に一人でその事務所に行った。そこにはもうろうとしている彼女の姿があった……相手は沢山いたがただ殴りついた。銃も向けられた。
結局エライさんに話をつけなんとか彼女を助ける事は出来たが、彼女は精神的ショックが大きすぎ、病院に入院した。
彼女の親にお見舞いにさえ受け付けてもらえないまま
1ケ月が過ぎた。。
その頃携帯もなく連絡手段がなかった為話すことはなかった。
そして、学校からの連絡で彼女が自ら命を絶った事を知った。
レイプされた事が原因だ。悔やんでも悔やみ切れない。彼女の気持ちを考えると涙がこぼれます。若いひとつの命が消えた。
まあささん、あんま感動じゃないかもなんて簡単に言えない話ですよ&#x{11:F9D3};
私の父の話。私が22才の冬、妊娠が発覚。ちょうど同じ頃父が体調を崩した。たいした事ないだろうとおもってた。彼があいさつに来た日、母は父が好きなすき焼きを作ったが父は体調が悪くほとんど口にしなかった。それから程なくして父が胃癌だという事を母から知らされ余命は6ヵ月…もって1年。母と2人で泣いた。妹はまだ4年生。この事実はもう少しあとに話そうという事になった。手術をして一時は退院できる位元気も戻りお花見にも行った。このまま良くなると思ってた。しかし…骨に転移、そして脳に転移。だんだん父の体が動かなくなっていくつづく…
亡くなる3日前、あさってから仕事始めるからあらを来れなくなると思い朝からお見舞い行った。母が用事を済ませに出掛けた為、病室に父と二人になる。こんなに弱った父を見るのは辛い。床擦れが痛いから体を動かしてと言われ涙を堪えながら動かした。何年振りだろう父に触れるのは。そして3日後仕事中父が亡くなったと知らせが入った。最期を見取れなかったのが一番の心残り。その日は息子の1才の誕生日だった… 朝、母が「今日は〇〇の誕生日よ」と言う言葉に「うん」と返事したのに…
公園でお弁当食べようと蓋を開けた瞬間、私の弁当に鳥の糞がボトッ…。
コピペです。芸人さんの話ですが、ちょっと感動したので載せてみます。
吉本はライブチケットの売り上げ枚数をチケットぴあの売り上げで決める。
手売りで完売しても、事務所は芸人が自分のバイト先、友達、コンパなどで義理でかってもらったものと思い、実力とは認めてもらえないため。
それを踏まえて。
ルミネができる前。品川庄司の初の単独ライブ。毎回、ライブは完売してたが、全部手売りで品川がさばいてたものだった。この単独のチケットの売り上げがよければ、ルミネでの前座をさせてくれると事務所に言われてた。
でも、品川はネタ作りに追われ、チケットを手売りすることも、宣伝することもできなかった。
庄司はネタ作りに励む品川の家を一度も訪ねることはなかった。
品川はいつものことだ、と庄司のことを親友のぺナルティやニブンノゴに悪口ばかりを言っていた。
チケット発売5日目のある日、マネージャーからチケット完売の知らせが入る。
チケット完売の日に庄司が初めて品川を訪ねてきた。
そして、品川は「オマエ、俺が一生懸命ネタ作ってるのにナニしてたんだよ!」
とキレて数発殴った。でも、庄司はただ殴られて、部屋を出て行った。
その話をワッキーにした品川。庄司の悪口ばかりを言う品川をワッキーは怒った。
そして、
「庄司に黙ってて下さい、って言われたから黙ってたけど、
庄司はバイトしたお金を全部チケットぴあでチケットを買って、それを道でずっと売ってたんだ。知らない人に売らないといけないからって。発売日からずっとだぞ!
アイツ、150枚(200人定員の劇場)チケット買って売ったんだぜ。
マネージャーや俺は知ってたけど品川に言ったら、怒るだろうから言うなって言われてたんだ。完売したら品川、喜んでくれるかなーってアイツ笑ってたんだからな!」
品川は泣きながら庄司に電話した。
そして、庄司も泣きながら一言。
「ライブ、頑張ろうね」
ワッキーと品川は一晩中、泣いたらしい。
あげ
あげ