- なんでも
- 真愛
- KDDI-SA31
- 05/08/01 13:54:19
自分の話、友人の話、ネットで見掛けた話…なんでもいいので、泣ける話や感動する話を書いて行って下さい★
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ネットで見た話。ある病院のガン病棟の大部屋に二人の男が入院していた。窓側の男は起き上がれず外の景色も見れず『もう俺は死ぬんだ』と悲観的になっている壁側の男にいつも窓の外の様子を話してあげていた。『もう桜がさいてきたよ。暖かいんだろうなぁ』『葉っぱが緑になってきた。木にセミがとまってるよ』など、とても楽しそうに話してくれていた。ある夜、窓側の男の容態が急変した。『うぅ…息が…苦しいんだ。先生を…呼んでくれないか…』窓側の男は壁側の男に助けを求めたが窓側の男は『こいつが死ねば俺が自分の目で外の景色を見れる。』と思い気付かないふりをして寝た。次の日窓側の男は息を引き取った。壁側の男は念願の窓側のベッドに移れた。『看護婦さんカーテンを開けてくれないか』看護婦はカーテンを開けた。そこにあった景色は打ちっぱなしのコンクリート一面の壁だった。
私は15の時に父と祖母を亡くしました。父は癌でした。病院に行った時には手遅れで余命は半年・・・。そして亡くなりました。祖母は父の横で「お前は本当にいい子だったね。」と言っていた。そして・・・父が亡くなった10日後に後を追うように祖母も亡くなった。元気だったのに・・・。仲の良い親子だったから一緒がいいんだなと思った。きっと天国でも仲良く暮らしてるんだろうな・・・
げ
あたしの人生は最悪な事の連続だったο幼稚園の時に父が病気で亡くなり小学生の時に母が蒸発ο父方の祖母に預けられる事になり毎日母の悪口を聞いて育ったο友達はお父さんやお母さんの話をしてて凄く羨ましかったο毎日孤独で人なんか信じられなくなってたο援交やクスリにも手だしたοどんどんダメになってく私の心と体οそんな時今の旦那と出会ったο私の全てを知っても何も言わずにギュッと抱きしめてくれた…一人なんかじゃないって泣きながら頭を撫でてくれた…初めて人を愛しく思えた瞬間でしたο今はあなたの寝顔を見ている時が一番幸せですο顔がにやけて自分でもおかしいくらいοこれが愛っていうもんなんだねο私を救ってくれてありがとうοずっとずっと死ぬまであなただけを愛し続けます
あげ
姉が4ヵ月前に自殺しました。鬱病で。姉とは喧嘩したままで去年から口もきいていなかったし 会ってもいませんでした。もちろん今年 生まれた私の子を見にきてくれたわけでもなく抱いてくれたこともなかった。私は姉が精神的においつめられていることをしらなかったので まーまたそのうち会いにきてくれると思っていました。6月19日 父の日に姉は首を吊りました。私は姉の元へいそいでいきました。ベッドの上て冷たくなった姉を見て「なんで死ねの?なんで?」って何回も繰り返し言ってたみたいです。私の子供を姉の横に寝させ「意地はってたけど本当は会いたかったんだろ?抱いてやりたかったんだろ?」って母が姉に言うと姉の目から涙がこぼれました。お葬式の日に姉の持ち物の中に私と息子の写真を1枚入れてもらいました。葬式が終わった後、姉の旦那さんが私に「姉ちゃんが死ぬ数日前に言ってたよ!あのこ(私)が産んだ子は私の生まれ変わりだから ちゃんと育ててるのかな?大丈夫かな?自分の妹を心底嫌いになれるわけないじゃん!」って…
私って最低な妹だよね?姉ちゃんのこと助けてあげれなかった。たった一人の妹なのになにもしてあげれなかった。ごめんねの一言がいえなかった。ごめんね 本当にごめんね。
もし姉ちゃんが私の事許してくれるんだったら私の元に生まれ変わってきてね。かならず幸せにする。 それと姉ちゃん私のこと心配してくれてたんだよね。ありがとう。
泣けるかは分からないけど…すごく嬉しかった話。
小6の時数ヵ月間学年中に無視されまくりだったけど、ある日皆の前で「今まで無視してごめん」って話し掛けてくれた人がいた!その人のおかげでイジメはなくなり友達とも仲直り。今は引っ越して疎遠だけど今でも感謝してるし、人間的に尊敬してます。あの頃はまだ幼くてうまく言葉に出せなかったけど…この場を借りて言います。本当にありがとう。
100?
かなり泣けました!
げ
あげます
あげ
あげます
良かった!本当に良かったね!
③私が3つの時の写真は無い… でも私と母と姉の全てがその時にある 写真には残っていないけれど… 今私は21歳。3歳の娘が居る。そして母は今その娘を抱きしめている。本当に幸せだと思う。 なんか悲しい結末のレスばかりだからハッピーエンドのレスです(#^.^#)
②上手く握れなくて家中御飯こぼして握ったのは今でも覚えてる ママが握るのとは違くていびつだったから恥ずかしかったけど「食べて」って言ったのも覚えてる 母と7歳だった姉は何故か泣きながら食べたのだって覚えてる でもあの時たった3つだった私は隠れて泣いた… ママもお姉ちゃんも居ない所で泣いたんだ 寝たきりだった母は私が散らかした米粒をはいつくばって拾ってた 「有難う」って言いながら… 苦しむ母を見て「ママが死んだら私も死ぬ」とお姉ちゃんはよく言ってたね 3つの私はただただ頷いてたっけ
げます
げ
①私が3歳の時母は寝たきりの病に苦しんだ。祖母も父も薄情な人達でそんな母を「怠け者!」と言い,3歳になったばかりの私と寝たきりの母,骨折して同じく寝たきりだった姉を置いて毎日仕事に行った。私は御飯さえ食べられずジュースさえ空けられず近所のお婆ちゃんに頼みに行くとお婆ちゃんは泣きながらジュースの蓋を空けてくれた。寝たきりの母をトイレにだって連れてった。パンツをおろしてナプキンかえた事もあった。途中で何度も母が倒れる度に恐くて泣いた。お腹が空いただろうと思い寝たきりの母と姉に3歳の小さい手でオニギリを握った…今思えばビー玉ぐらいだったと思う
あげます
マジなける
げ
両親が共働きだったためほとんど祖母と過ごしていました。大きくなるにつれ私は口うるさい祖母をうっとうしく思うようになりつらくあたってしまいます。祖母はどんどん歳を取り痴呆症になってしまいました。頑固できっちりした性格の祖母は自分が何もできなくなってしまったこと、何をしていいか解らなくなってしまったことが悲しく1人になると泣いています。淋しい、不安だと泣いています。そんな祖母を見ると私も涙が出ます。あまり好きではない祖母ですがそんな姿を見るのは悲しいです。辛く当たってしまうかもしれない。けど、どうか長生きしてください。
キャリアウーマンの姉が亡くなった時、母は、今度は仕事ばっかりじゃなくて、好きな人のお嫁さんになるんだよ、と、ウエディングドレスや靴、アクセサリー一式を棺に入れました。
そのウエディングドレスは、姉が亡くなった日に、母と私とダンナが、私の結婚式の時にお世話になった貸衣装店に、買いに行ったら、担当だった方が、母の思いを知って、一式プレゼントしてくれました。レンタル落ちの物だったけど、店員さんの気持ちが嬉しかったです。
先月、祖父を亡くしました。足が悪かったので外出をすることができませんでした。私が息子を出産し見せに行こうとしていた矢先の死でした。私は祖父が亡くなる前日にヘンな夢を見てそのことを母に言うとその夢は不吉なんだよ。誰かが死ぬっていわれてるんだよ…と言われました。まさかと思っていましたがその日の夜に祖父が危篤の知らせがありました。まだ息子を見せに行ってなかったので次の日急いで祖父のところへ行ったらすでに亡くなっていました。あと1時間でも早ければ…という状況で残念で仕方ありませんでした。そして初七日の頃でしょうか‥家にいたら突然、お線香の香りがしました。息子を見ると顔を左から右に誰かを見つめるようにそしてニコッとしていました。きっと祖父が会いにきたんでしょう。抱っこして欲しかったな…。
私は4人兄妹の末っ子です。しかし、兄と姉は私が産まれる前に亡くなりました。
姉は生まれて2時間後に亡くなりました。
原因は心臓の部屋が2つしかなかったからです。
生まれた時産声が聞こえなくて、父に「赤ちゃんは?」と聞きました。父は「今、綺麗にしてもらってるよ。かわいい女の子だよ」
と嘘を言いました。
姉が亡くなった事は母には産後3日目に伝えられたそうです。母はその時狂った様に泣き叫び、父に「ごめんなさい」と言っていたそうです。
兄は7才で亡くなりました。事故でした。
友達と木登りをして遊んでたら、足を滑らせ落ちてしまいました。兄は長男だったので、祖母から「お前が殺した。お前が死ねば良かった」と言われていました。
そのせいでアルコール依存症になり、まだ生後間もなかった姉を一時乳児院に預けていたそうです。
落ち着いた頃、母は私をみごもりました。
涙が出るほど嬉しかったそうです。「○○(兄)の生まれ変わりだ」と大切に育ててくれました。
今でも母は言います。「○○(兄)も亡くなった時、死のうと思った。けど死ななくて良かった。お前が生まれて、孫にも会えて幸せよ。ありがとう」と。
あげました!!
号泣だよ~(ToT)
泣ける(T_T)
私は三人兄弟の母子家庭で育ちました。
私がおなかにいる時に父が蒸発、母は悩みぬいた末に私を生んでくれました。
貧しい生活、でも貧乏だけど笑いは絶えなかったよね。。
私の事をたくさん可愛がってくれたね。。
朝から晩まで働いて、体を壊して、50才の若さで癌で亡くなってしまった。。
私は当時まだ18才で、反抗したり生意気言ったり、迷惑かけてごめんね。当時は恥ずかしくて言えなかったけど、今なら大きい声で大好きって言えるよ。。
私がバイトしたお金でお母さんに月一万ずつあげてたよね。
好きな物買わせてもらうねってニコニコしてたね。
でも母がなくなった後に分かったけど、私のあげてたお金は全て私名義で貯金しててくれたんだね。後から兄に聞いたよ。
一度でいいからお母さんに会いたい。
息子の顔を見せたかったな。。きっとすごく可愛がってくれただろうね。
おかあさん、ありがとう。。大好きでした。
鼻水タラタラ(TдT)
話ばっかりだ(>_<)
お通夜が始まる前から、最中もずーっとおじいちゃんの傍に寄り添って、顔を触りながら「じいちゃん、起きりーよ。じいちゃん?」って。そしてお通夜が終わってみんなが帰って行った後、突然私を呼び「もう無理なん?」と…。私は頷く事しか出来ませんでした。弟はその時初めて泣きました。親戚一同その姿を見てまた泣きました。今でも弟は祖父の写真を持ち歩いてます。髪は金髪に近くて、はたから見たら只の不良。そんな弟の純粋で優しい一面でした。長文失礼しましたm(__)m
切ない話だけど、いいですか?今年の三月祖父が亡くなりました。その時の話です。私の弟は中学を卒業したばかりでお通夜など初めての体験でした。お通夜の日「お通夜って何?」と聞かれたので、「一応人が亡くなったら、生き返らないかどうか様子見るんだよ。」私自身もよくわからないのでこのように答えました。すると弟はずっと棺桶のおじいちゃんに寄り添って離れなくなりました。続く
泣けますね…
主人と結婚して二年後子供を授かり私も主人も生まれるのを待ち望んでました。妊娠九ヵ月に入る頃会社から連絡があり、主人が倒れたとのことで病院に向かいました。心筋梗塞でもう息していませんでした。朝見送った時はいつもとかわらない朝だったのに。悲しみに暮れる暇なく出産を迎え子供はどんどん成長して今息子は9歳。…主人に見守られながら毎日を過ごしています
私が嬉し泣きしたお話です。 次男は幼さがあり小6には見えません。お勉強もあまりできません。アンパンマン、ディズニー、ぬいぐるみ大好きです。 私達夫婦は3年前から自営業を営んでおります。 当初の予定と違いなかなか軌道にのらず、ほとんど家にいない私たちです。 同居の義父母に私の休み以外夕食をお願いし、朝起きた時と寝る前しか子供達と接することが出来ません。
義父母にも申し訳なく過ごしております。
そんな次男の作文、「僕のお父さんとお母さんは頑張りやさんです。ほとんどお店に行っているので僕はちょっと寂しいです。でも僕は大きくなったらお父さんのようなコンビニのオーナーになりたいです。計算は出来ないけど電卓があるので大丈夫だと思います。お客さんに楽しい店やと思ってほしいです。日本一のお店にしたいです。もうちょっと大きくなったら、お店を手伝ってお母さんにゆっくりしてもらいたいです。」と書かれてありました。 現在中1の長男の小学校の卒業式には将来の夢「コンビニオーナー」と半紙に書いた紙が飾ってありました。 子供達をほったらかしのダメ親なのに… 長文m(_ _)m
病院からでした。母の様態が急変したのですぐに来て下さいとの事でした。私はとにかく急いで病院へ行きました。すると父が母の手を握ってました。母の意識はほとんどなく、途中何度も痙攣のようにガタガタふるえだしその度父は『俺も〇〇(兄)も〇〇(姉)も〇〇(私)もそばにいる!!だから目をさませ!!頑張れ!!』と何度も励ましてました。けど母は7時間後に亡くなりました。入院してちょうど1ヶ月でした。その後姉と二人で冷たくなった母に化粧をしてあげました…。心の中で『今日ちゃんと起きれてたら話しできたし、お母さんの好きなジュースも飲ませてあげれたのにごめんね、最後の最後まで約束守れなくてごめんね』と何度も謝りました。
いっときは、母の写真、お仏壇に手を合わせる時『ごめんね』しか言えなかったけど今では『ありがとう』と言えるようになりました。
お母さん私を産んで育ててくれてありがとう。もし会えるなら母にそう伝えたいです。
高校卒業して朝から夜まで遊びほうけてました。その年の夏、母が体調を悪くして家の近くの病院に通うようになりました。けど原因が分からず総合病院を紹介され病院に行った日に検査の為入院でした。私は『そんなたいした病気ではないだろう、すぐ退院するだろう』と思ってその後も遊び続けてました…。入院して3日目、父が『母の病気が分かった』と言いながら涙を流し てました。母の病気は大腸癌でした…。 母の命は長くて2ヶ月早くて明日…。聞いた瞬間混乱しました。1ヶ月前までは元気で一緒に買い物行ったりしてたのに『なぜ…??どうして…??』ずっと涙が止まりませんでした。母は日に日に痩せていきました。なのに足はむくんでパンパンに腫れていました。お見舞いに行っても母の痩せこけた笑顔を見るのがとても辛く母と話す事が出来なかった…。 ある日、担当医から『母の好きな飲み物を明日持って来てあげて下さい』と言われ次の日に朝一で持って行こうと思ってました。でも起きれずに電話で目が覚めました。
あげます(T_T)/
…泣いた…
泣ける2ちゃんねるみたいに文庫化したりして・・・。
あげます
あげ&#x{11:F99A};&#x{11:F99A};&#x{11:F99A};
あげ
感動。。。
あげ↑↑
私が小学3年生の時の話です。
祖母が年で歩けなくなってから、ずっと母が朝から晩まで看病しに行ってました。元気な頃はよく遊んでもらっていたのに、だんだん痴呆が激しくなるにつれ私は祖母のことが、恐くなっていきました。いつも看病で夜が遅くなる母に甘えて『今日はおばあちゃんのとこに行かないで、一緒にいて!』ってタダをこねた日、母はいつもより2時間遅くに祖母の所へ行きました。そのとき祖母は息を引き取ったあとで、まだ少し暖かかったそうです。あの日、私がワガママを言っていなければ祖母は一人で亡くなる事はなかったと思います。すごく私を可愛がってくれてたのに私は祖母にとてもひどい事をしてしまいました。
おばあちゃん、一人にして本当にゴメン。今年は曾孫連れてお墓に遊びに行くね。 長文乱文スミマセン。誰かに聞いてほしかったので
。゚(゚´Д`゚)゚。
いい話だね…泣ける。
私手紙におじちゃんが天国で心配しないように頑張るって約束した。おじちゃんの弟にいつもおじちゃんがしていた時計をもらった。時計は今でも、おじちゃんは今でも私と一緒だよ(^ー^)私頑張る★長文を読んで下さって本当にありがとうございましたm(__)m
おしゃべりだったおじいちゃんはもう苦しさでうめくので精一杯だった。私は毎日ベッドの横で手をにぎりしめた。小さいときいつもいつもつないでいた温かな手。苦しさにうめきながらも時折かすかに私の手を握りかえしてくれた。まもなく息を引き取ったおじちゃん。その夜はとってもたくさんの雨が降った。おじちゃんの棺の中に私は手紙を入れた。ありがとう。大好きなおじちゃん。思い出をたくさん。涙でボールペンの字がゆがんでたよ。
大好きなおじちゃんが死んじゃったのは3年前。本当に小さいときから毎日遊んでもらってた。言葉の病気で私の"みか"という名前をいつも「にかちゃんにかちゃん」と呼んでた。私が中学生になっても高校生になっても会う度「にかちゃん、おかしかってあげる」「にかちゃんおかねあるか?」「にかちゃんおもちゃいるか?」そういって会う度しわくちゃの千円札をくれた。私が高校生のときおじちゃんは癌になり入院しました。抗がん剤との戦いで会う度痩せていくおじちゃん。いつも笑顔だったおじちゃんの顔は痛みにゆがんで