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>>961
では稲嶺氏は、伊波洋一氏のように、元々の極左思想の持ち主だったのか。
辺野古移設の一番の当事者である辺野古区の大城康雅区長によると、稲嶺氏は名護市教育長時代から旧知の仲で、一緒に辺野古埋め立ての事業計画を練り、辺野古の発展を計画した「基地容認派」だったという。
それが豹変したのは、市長選挙の直前である。
当初容認派の島袋氏と共産党候補そして稲嶺氏を含む三つ巴の立候補者が予定された。
革新側としては強力な現職の島袋氏に勝利するため票を1人に絞る必要性を感じ、予定されていた共産党候補の出馬辞退とバーター取引で「辺野古受け入れ反対」を主張するようになったという。
そしてバーター取引は成功した。
稲嶺は当選後の会見で、「私は辺野古の海に基地を造らせないとの公約を信念をもって貫いていきたい」と発言し、さらには初当選の初年度の挨拶で、「基地収入に頼らずとも名護市独自の工夫でやっていく」などと大見得を切って沖縄2紙の絶賛を受けた。
ところが、現実はそんな甘いものではない。
沖縄2紙は報道しないが、稲嶺市長は、名護市の米軍基地の一部返還を申し出た防衛省に対し、継続使用を申し出たのだ。
「基地収入が欲しいので返還しないで欲しい」と泣きついて返還を猶予してもらったのである。
年間1億3千万縁を上回る軍用地使用料収入が失われる上、返還後の土地使用の見通しも立たないと言うのがその理由というから、呆れて言葉を失ってしまう。
つづく- 0
13/03/23 16:03:12