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>>766続き
この女教師は女子マネージャーに
―貴方たちはモテたいという下衆な動機でなったのだろう―
と非難しているのだ。
しかも
―自らすすんで自分を周辺部に置く―という゛献身゛の概念をまったく理解せず、
専業主婦は
―自分自身を生きることを辞めている―
と一方的に断罪するのである。
しかし、高校生がモテようとして何が悪いのか。
「周辺部に身を起きたがること」を打算だと非難するが、この世はそうした人々の献身的な行為によって支えられていることを知らないのか。
この教師の皮相かつ独善的な見方には気分が悪くなるほどである。
国語の授業でもジェンダー思想が絡むと、呆れた実践となる。
ある女教師は、教科書に女性作家が少ないことを確認させた上で
―このように文字における女性の業績を無視した教科書は、長い性差別の歴史であることを確認してから授業に入る―
という。
この教師は、教科書編纂者が意図的に女性作家を排除していると思っているらしい。
私の手元には日本推理作家協会の住所録があるが、女性作家が少ないのは女性差別の結果だというのか。
授業では田嶋陽子著『もう「女」はやってられない』(講談社)の一部を読ませて恋愛について考えさせる。
この本は
―男性支配社会において女が男と対等でいられるのは<恋>までで、<愛>つまり結婚生活が始まると女は奴隷になる仕組みを説き、女が経済力を獲得すれば男女の力関係は変わり<愛>も変わると結んでいる―という。
この教師は授業を通して
―愛という名のもとに女と男が上下関係になってしまうのを語るのに急で―
―女と男はしょせん支配・被支配の関係にすぎないから、対等な恋愛など存在しない―
というメッセージしか伝えられなかったと気にしていたが
生徒から「恋愛は別にしなくてもいいんだ」
という感想があったことで
「少しは自己発見に役だってくれた」と満足する。
しかし
公教育の場で「恋愛は支配・被支配の関係だ」「主婦は奴隷だ」などと教えられる生徒こそ哀れである。
このような授業がトラウマになって、正常な恋愛や結婚ができなくなるのではないかと心配してしまう。
続く- 0
16/01/07 21:35:16