- ニュース全般
- ナカバラ
- 21/06/14 18:28:08
「ちょっとあなた」2018年2月9日午後9時過ぎ。群馬県太田市のスーパーで、元マラソン日本代表の原裕美子さん(39)=当時36歳=は女性警備員に呼び止められて我に返った。ジャンパーの中に隠し持っていたのは、キャンディー1袋とクッキー2袋の計3点、総額382円。
万引きでの逮捕は、これが7度目だった。「また、家族に迷惑をかけてしまう。死んでわびたい」。留置場では泣きながら両手で首を絞めた。舌もかみ切ろうとした。でも、死ぬことはできなかった。
「現役時代はケガに苦しめられたのに、なぜこんな時に丈夫なんだ」
過去の栄光と、それと引き換えに蝕まれていった心と体。何もかもうまくいかない人生に、原さんはぼうぜんと立ちすくんでいた。
なぜか仲間外れでも大会優勝で認められた喜び 、幼い頃から、走るのは得意だった。
原裕美子さんは、小学6年の時、地元中学の陸上部指導者の目に留まり、中学生に交じって練習を積んだ。実はこの頃、さしたる理由が思い当たらないまま、学校では仲間はずれにされていた。
憂鬱(ゆううつ)な日々を振り払うように走り込んだ。すると、校内マラソンではダントツの優勝。
「原さん、すごい」。周囲の目が変わった。
「もっと褒められたい。もっと速く走りたい」。中高とも陸上にのめり込み、高校卒業後は、実業団チームの「京セラ」に入部した。毎朝5時に起床し、13キロのジョギングをこなす。日中は午後2時頃まで工場で働き、その後は午後6時まで走り続けた。
練習の苦しさは、中高時代の比ではなかった。だが、負荷をかけられた自分は、確実に強くなっていた。
初のマラソンレースとなる2005年3月の名古屋国際女子マラソンで、並み居る強豪を抑えて2時間24分19秒の好記録で優勝。同年8月の世界選手権ヘルシンキ大会では、日本人最高位の6位に入った。
「これまで目立った活躍のなかった自分が、世界の舞台で走れるなんて」。喜びをかみしめた。
07年の大阪国際女子マラソンも制し、日本のトップランナーとして、「原裕美子」の名は知れ渡った。
その栄光は、過酷な練習と、ある「秘密」に裏打ちされていた。心と体をコントロールして、強く、速く走り続けるための秘密――。
減量苦…つい伸びた手
「とにかくつらかったのが、食事制限でした」
入社直後は身長1メートル63、体重49キロ。実業団ではそこから、5キロの減量を命じられた。「お前だけ体重が落ちないのはなぜだ」。毎日のように叱咤(しった)された。
当時、父の芳男さん(70)は、たまに帰省した娘が大好物の鶏のから揚げの衣を外して食べていた姿を忘れられない。「本当に身を削って、走ることにささげていた」
追い詰められ、走ることが嫌いになりかけた時、原さんが編み出したのが、おなかいっぱい食べては、体を折り曲げて吐き出す「食べ吐き」だった。嘔吐(おうと)には何の苦痛も伴わない。「いくら食べても太らない!」。絶好の減量法だと思えた。
限界まで走り込み、北京五輪(08年夏)の出場に手が届くところまできた07年冬。
全日本実業団対抗女子駅伝に向けた合宿中、他の選手が冷蔵庫に入れていたヨーグルトを、原さんは勝手に食べてしまった。「どうしても食べたかった」。監督に問われ、すぐ謝ったが、駅伝は欠場。その後の大会でも成績はふるわず、五輪切符は、指の間からすり抜けていった。
食べては吐き、胃液で溶ける歯…前5本だけに…
人生は、さらに良くない方に転がっていく。
北京五輪出場を逃した後、別の実業団に身を置くなどして再起を図ったが、ケガに悩まされ、結果を出し続けることができない。元コーチにお金をだまし取られ、結婚を約束した男性とは、式まで挙げた後に破局した。
「誰にも必要とされていない」。孤独が募り、ストレスを抱えるたび、食べ吐きの欲求が膨らんだ。おなかいっぱい食べると、その間は、嫌なことを忘れられた。
大量の食べ物を得るため、原さんはいつしか「万引き」に手を染める。
全文はソース元で
読売新聞オンライン
- 0 いいね